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キリシタンゆかりの地をたずねて
後藤寿庵
カトリック水沢教会 後藤寿庵像
後藤寿庵の生涯の始めと終わりについては、明らかではありません。まるで、メルキセデクがアブラハムに出会った時のことしか知られていないように、後藤寿庵の生涯についても、確かなことは、仙台の伊達政宗の家臣となり、1612(慶長17)年、1200石を与えられて見分(現在の奥州市水沢区福原)の領主として、寿庵堰を開いた12年間のことしか分かっていないといわれています。
しかし、この12年間に彼のしたことは、今にいたるまで語り継がれ、カトリックの信者たちのみならず、多くの人に影響を与え続けています。
後藤寿庵は、岩手の豪族岩淵近江守秀信の次男として生まれましたが、豊臣秀吉に滅ぼされた後、諸国を流浪し、長崎の五島でキリシタンとなり、洗礼を受けました。洗礼名は、ヨハネ(ジョアン)です。このときから五島(後に後藤と改名)寿庵と改名しました。
彼は長崎で、西洋文化や土木技術を学んだといわれています。
後藤寿庵が来た当時の福原は、「砂漠のようだ」といわれていました。水不足によるためです。
彼は、私財を投じ、長崎で学んだ土木技術を生かして、胆沢川から水を引き、人びとの生活を少しでも楽なものにしようと堰を作りました。
また、人びとが協力しあって堰をつくることによって、互いに助け合うこと、互いを思いやること、そして、キリスト教のすばらしさに触れていけるように心がけました。キリストの福音に満ちた地にしようという心から、見分という地名を福原に変えたほどでした。
寿庵祭
しかし、キリシタン禁教令によって、後藤寿庵は堰の完成を見ることなく、姿を消していきました。
寿庵堰によって、砂漠のようだといわれていた福原は、岩手県一の豊かな穀倉地帯に変わったのです。
福原から姿を消した寿庵のその後は、はっきりしていませんが、1951(昭和26)年に、宮城県登米市で寿庵の墓が発見されました。
1924(大正13)年、治水の功により寿庵に従五位が贈られました。さらに、1931(昭和6)年には、彼の館跡に寿庵廟堂が建てられました。
岩手県奥州市水沢区福原寿庵廟において春のと秋に寿庵祭が行われます。
春の寿庵祭はカトリック水沢教会の主催、秋の寿庵祭は地元の主催です。寿庵祭は、カトリック教会だけでなく、やはり地元の方々と密接に関わりのある祭りです。
教会主催の「春の寿庵祭」は、1951年(昭和26年)以来行われていますが、ミサと田畑の祝別式、「秋の寿庵祭」は収穫を感謝し、寿庵の徳をたたえる郷土色豊かな祭りです。
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