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江戸の大殉教(元和の殉教)


「元和大殉教記念碑」の石柱
「元和大殉教記念碑」の石柱

江戸の大殉教とは、1623(元和9)年12月4日に、江戸時代に高札場が設けられていた「札の辻」(品川)での殉教です。
 この殉教は、元和8年8月5日(1622年9月10日)に長崎西坂において55名が殉教した「長崎の大殉教」と、元和5年8月29日(1619年10月6日)に六条河原において52名が殉教した「京都(みやこ)の大殉教」とともに、日本の三大殉教として「元和の殉教」と呼ばれています。

 1612(慶長17)年、駿河において数人のキリシタンが追放されました。そのに、ジョアン原主水と韓国人のジュリア・オタアがいました。原主水は江戸に逃れ、ジェロニモ・デ・カストロ神父と、ルイス・ソテロ神父が徳川家康の許可を得て建てた、鳥越(浅草)のハンセン病患者のため施設などに身を潜めながら、宣教師と共に働いていました。

 1623(元和9)年、3代将軍が家光となり徳川幕府は、キリシタン迫害政策を強化しました。
 原家の元の家臣の密告により、デ・アンジェリス神父、原主水などの隠れ家が町奉行に知られ、捕えられました。

「元和のキリシタン殉教碑」石碑
「元和のキリシタン殉教碑」石碑

12月4日、小伝馬町の牢屋から引き出された宣教師と信徒50名は市中を引き回しされ、札の辻において、十字架につけられ殉教しました。最初に信徒たちが、次いで2人の神父と原主水が火刑に処せられました。札の辻は、東海道と北国海道の分岐点にあたる場所でした。
 12月24日には、殉教者たちの妻と子どもたちの24名とキリシタンを匿った人たちも13名が、同じように市中を引き回しされた上、ほぼ同じ場所で処刑されました。

 アンデリス神父とガルベス神父、シモン遠甫(えんぽ)修道士の3人は、1896(慶応3)年に、 列福されました。2008(平成20)年11月24日、ジョアン原主水も「ペトロ岐部と187殉教者」の一人として、長崎において列福されました。

 1956(昭和31)年には、殉教地に信徒の手によって「元和大殉教記念碑」の石柱が建てられましたが、殉教地にほど近いカトリック高輪教会に移設されました。

 刑執行後、長く不浄の地とされていましたが、後に智福寺が建てられました。1966(昭和41)年智福寺が、練馬区に移転した後、都ホテル・都イン東京ホテルが建てられた。現在は、刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、「元和のキリシタン殉教碑」石碑が設置されています。



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