homeキリシタンゆかりの地をたずねて物語一覧 > 京都 元和の大殉教者たち

キリシタンゆかりの地をたずねて

ゆかりの地

物語

京都 元和の大殉教者たち


「元和キリシタン殉教の地」碑
正面橋近くにある元和キリシタン殉教地の碑

1614(慶長19)年に徳川幕府によって出されたキリシタン禁教令と宣教師国外追放令の後、各地でキリシタンに対する取り締まりが厳しくなっていきました。
 1619(元和5)年、徳川秀忠は迫害を強め、都でもキリシタン大弾圧がはじまりました。

 京都所司代板倉勝重は、多くの信者を捕らえ牢に入れました。1月10日だいうす町に住む信者たち36名を捕らえ、小川牢屋敷に、4月と7月には、さらに他の信徒も捕らえられました。
 獄舎の苛酷な条件の中で、2歳のミゲルとペドロほか8名が牢内で殉教しました。

 10月6日、52名の信者たちは、牛車に乗せられて、都の大路を引き回されました。男子26名、女子26名でした。その中の11人は、まだ15歳になっていませんでした。

 そののち、鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりに連れてこられました。将軍秀忠の命により、27本の十字架が立てられていました。キリシタンたちは、2人、あるいは3人ずつ十字架に縛られました。

 長い苦しみを避けるため、板倉は巻きを多く十字架の下まで積み上げさせました。さらに、十字架と十字架の間も薪で埋め尽くされていました。準備が終わった時、すでに夕方となっていました。

 間もなく薪に火が付けられました。
 殉教者たちはイエス、マリアの名を、声をあげて呼びました。

鴨川の河原

平戸のイギリス商館館長はこの時京都に滞在していて、この殉教を見て次のように記しています。
  「わたしは京都にいた時、信仰を棄てないという理由で55人のキリシタンが殺されるのを見ました。彼らの中には母親の腕に抱かれた小さな子どもたちもいました。母親たちは『主イエスよ、この子どもたちの魂を受けてください』と叫んでいました」。

 この都の大殉教は、1622年9月10日の長崎の大殉教、1623年12月4日の江戸の大殉教とともに三大殉教と呼ばれています。

 橋本太兵衛の妻テクラと5人の子どもの殉教が、特に人びとの心に残りました。
 3人の子どもと共に縛られたテクラは、最期まで4歳のルチアを固く抱き締めていました。

 当時の役人たちの記録からも、その殉教が人びとに大きな影響を与えたことがわかります。

 のちに殉教する2人の司祭、ベント・フェルナンデスとディエゴ結城は、殉教者を世話し遺体を葬り、殉教の記録を作成しました。

 1994年8月、鴨川のほとりの遊歩道に、鞍馬石「元和(げんな)キリシタン殉教の地」と刻まれた記念碑が建てられました。



▲ページのトップへ