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江戸の殉教者 ジョアン原主水

カトリック静岡教会 ジョアン原主水像
カトリック静岡教会
ジョアン原主水像

原主水胤信(はら もんど たねのぶ)は1587年ごろ下総国(現在の千葉県佐倉市)臼井城主・原刑部少輔胤義の嫡男として生まれました。

 父は、1590(天正18)年の小田原の合戦に、北条氏方として参加したため、北条氏と命運を共にし、臼井城は開城しました。父を亡くした幼少の主水は、家康の小姓に召されました。

 1600(慶長5)年、家康に従い大阪にいた主水は、イエズス会のペトロ・モレホン神父からジョアン(ヨハネ)という洗礼名をもらい洗礼を受けました。

駿府城内公園

1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きました。16歳になった主水も、江戸に下り、歩り衆となり、30人が配属され、1500石が支給されるようになりました。
 家康が隠居して駿府に移った際、主水も家康に従いました。

 1612(慶長17)年の岡本大八事件(贈収賄事件)によって、駿府でも本格的なキリシタン弾圧が開始され、家康の家臣団が検索されました。
 この時、家康の家臣の14人くらいと奥女中のジュリアと、彼女つきのクララとルチアのいう3人が摘発されました。家臣は追放され、彼らが保護されることがないように、家康は京都や長崎のイエズス会にも文書を送りました。3人の奥女中は、伊豆に流されました。

 キリシタンとして摘発された家臣の中には、ディエゴ小笠原権之丞と共にジョアン原主水の名もありました。主水は、たまたま家を不在にしていた時に追放の報を聞き、岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに宣教を行っていました。しかし、2年後に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られました。彼はこれを拒み、火の焼きごてで額に十字の焼き印をされ、手の指と足の腱を切られ、追放されました。

 これを目撃した、仏僧によって、主水は助けられ匿われましたが、そのことが露見し仏僧は処刑されました。

銅板の駿府古絵図に残る「原主水」の名前
銅板の駿府古絵図に残る「原主水」の名前
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主水は、駿府を脱走し江戸で、浅草の鳥越の方にあったフランシスコ会の系統の施療院(せりょういん)で、ハンセン病の人たちの世話などをして宣教活動を続けました。

 1623(元和9)年の秋に、主水に仕えていた小者に密告され捕らえられました。
 この年は、3代将軍家光が家督を継ぎ、秀忠とともに上京した年でした。江戸に戻った家光は、最初は江戸城の大広場で処刑することにしていましたが、見せしめのために、街道筋で多くの人が通る札の辻で処刑することとなりました。

 1623(元和9)年12月4日小伝馬町の牢屋から3つのグループ50人が歩きはじめました。
 1つ目のグループは、イエズス会のデ・アンジェリス神父のグループで、アンジェリス神父だけが馬に乗り、他の人は歩いてついて行きました。
 2つ目は、フランシスコ会のガルベス神父のグループで、彼も馬に乗っていて、10人くらいが後ろから歩いてついて行きました。
 そして、3つ目のグループはジョアン原主水で、彼も1人馬に乗り、同じように他の人は歩いてついて行きました。殉教者は伝馬町牢獄から田町を経て、札の辻まで歩きました。その途中2人の神父は、説教をしながら歩いたと言われています。

 札の辻に着くと、一番江戸の方に向かって3本の十字架、少し離れて1.5mおきに47本の十字架が立てられました。まず、47人の人たちを、わらでゆっくりゆっくりと処刑されました。
 その後、アンジェリス神父とガルベス神父、原主水の3人が火刑に処せられました。
 アンジェリス神父がまず亡くなり、次に原主水、最後にガルベス神父が亡くなりました。

 この年の12月24日、殉教者たちの妻と子どもたちの24人が、同じように市中を引き回しされた上、ほぼ同じ場所で処刑されました。この時、キリシタンを匿った人たちも13人も処刑されました。



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