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新世紀ルーツへの巡礼

目次

 新しい時代:刷新の歩み

霊性センターの設立 3

創立者の後列にロアッタ師

聞き手:女子パウロ会 シスター

語り手:ロアッタ神父      

ロアッタ神父とのインタビューの続きをお伝えします。

女子パウロ会 シスター:
ローマで?

ロアッタ神父:
1953年、ある人びとはいつも先を見ているから、「1954年は創立40年なのに何もしないのだろうか」という声が出た。ペリーノ(後に総長となる)、ガンビ神父(週刊誌『ファミリア・クリスティアーナ』編集長)といっしょに「何かしよう、考えてみよう」ということになった。こうして準備したのが『我、前進す』(訳注《Mi protendo in avanti 》)という本だ。あの本はその機会に出たものだ。この本の中心となった『師イエス』という論文を私が書いた。師イエスについて私がしてきた研究が、ああいう形になった。それがこの本の中心となった。それをのちになってパウロの娘たちがとりあげて本にした。その本を、かわいそうに、修練女のあなたたちが勉強する破目になった。

女子パウロ会 シスター:
私はまさに修練女だったのです。本はできたてで湿っていました……。

ロアッタ神父:
私は師という言葉から出発して研究し始めた。昔の人は師といえば、どういうことを考えていたか……。聖書は師について何といっているか……教父は……というふうに進んでいった。 ところが創立者が「師イエスの本」といったときに考えていたのは、「道・真理・生命」ということだった。彼にとって「師」というのは一つの表現であって、内容として彼の心と生き方にあったのは「道・真理・生命」ということだった。「道・真理・生命」というときに含まれている広大な内容、父と子と聖霊、預言者・司祭・王・牧者、信・望・愛、教義・道徳・崇敬……。

女子パウロ会 シスター:
清貧・貞潔・従順までも……。

ロアッタ神父:
何でもいっさいが入る。彼の心のイメージが広がっていくなかで見た見取り図のすべてだ。だが、こちらにはそうした図面がなかった。いまでも、さんざん研究をして読みまくったいまでも、アルベリオーネ神父の言葉を読むと、ある種の結び合わせに、はたと立ちどまることがある。神学が、はたして、そこまで許容するか……どうか。 だが一つの啓示を受けたように「道・真理・生命」というタイトルに強い印象を受けていたから、創立者は世界観とか神学のすべてを師イエスを軸に見、私たちがそうとらえるのを望んだ。だが、私にはできなかった。だれができるだろう。 いずれにせよ、その後も研究を続け、深めるのをやめなかった。 そうしていると、1955年9月8日、私を呼んでいわれた。 「ブラジルでは、何かおかしいことが起こっているらしい。だれかが見てくる必要があるが、行ってはくれないか」ということだった。私の勉強・研究は途中だった。「6か月か1年で、事が順調に戻ったら、帰ってきて正規に研究を続け、本を書きなさい。」 そこで、どんなところに行くかもわからずに出発した。たいへんな難題が待ち受けていた。しかし、なんとかうまくかたづけて、万事が発展の道をたどり始めた。そこに私は14年間いた。

女子パウロ会 シスター:
創立者の1年は14年だったということですね。

ロアッタ神父:
まあ、そうだ。私がブラジルに行って間もなくのこと、聖座はブラジルを管区にするように、と要請してきた。まだ管区が存在していなかった。中央の統治が会全体を見ていた。聖座が、管区をつくるように、といってきたので、6つの管区ができた。イタリア、日本、スペイン、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、これは会がよく発展している国々だった。

女子パウロ会 シスター:
神父様がブラジルに派遣された時点で、大派遣があったといわれているように記憶していますが……。 ドン・ペリーノ、ドン・フェデーレも。

ロアッタ神父:
彼らはもっと後だ。まあ、この時期ではあったが、翌年、翌々年だった。

女子パウロ会 シスター:
私たちパウロの娘たちは、集中的に大派遣が行われているのを見て、しかも、大切なポストを占めていた司祭方が何人も海外派遣されるので、創立者がご自分の後継者を準備し始めたのだ、とうわさしていました。(笑い)
こういう話はそちらにありませんでしたか。

ロアッタ神父:
なかったと思う。一人ひとりは別々に出発していって、「チャオ」というふうだったから。私はいま話した事情で派遣された。1年か1年半たってから、ペリーノ神父はコロンビアに。2年たってから、フェデーレ神父がアルゼンチンに送られた。ここも調整・刷新の必要があった。

創立者としては、私たちが本で勉強するだけではなく、実際の体験をしたらよい、と考えたのだろう。生活、経営管理、統治などの諸方面で。こういうことだと思う。自分の後継者は手元で養成していた。ザノーニ神父(第2代総長)を自分のそばにおいた。そして実際に後でザノーニ神父が彼の後継者になった。

さて、管区をつくるということになったら、ブラジル管区長に私が任命された。管区長任期は6年間。6年たつと、全管区長がローマに召集された。

私は彼に、6年たちましたからローマに帰って勉強を続けますか、というと、「いやいや、ブラジルにとってなかなかいい管区長だったから、もう1回管区長をしなさい」というわけで、もう6年。合計12年。12年がすんだとき、彼に書いた。会憲の規定で3回目の留任はできない。「いまからどうしましょうか。後任の人を送ってください。その人にひき継ぎをします。そして、私が何をするかおっしゃってください。ローマに帰って勉強に戻りますか。」 ローマから手紙が来た。アルベリオーネ神父の名でザノーニ神父からの手紙だった。「もうすぐ総会がある。いま管区長を変えるのもなんだから、もう少し続けなさい。」こうして、もう1年半続けた。13年半。法も規則もなんのその。13年半管区長を続けた(笑い)。

女子パウロ会 シスター:
1960年代の何年ごろのことでしたか……。

ロアッタ神父:
1969年だった。その年に総会があり、その後ここアリッチャの家に来て、今までいる。 アルベリオーネ神父と私との関わりは、こんなところかな。

インタビューは次回にも継続します。

◆11-新しい時代:刷新の歩み


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