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ユスト高山右近


高槻城跡 高山右近像
高槻城跡 右近像

高山右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きたキリシタン大名です。
 1553(天文22)年ごろ、摂津高山に武士であった父高山飛騨守友照(ともてる)と母マリア(洗礼名)の間に生まれました。

 飛騨守は、松永久秀に仕え大和の国沢城主となりました。キリシタン反対派であった飛騨守は、結城山城守忠正、清原枝賢(きよはら しげかた)とともに、キリシタンを追放するために、琵琶法師であったのに聖フランシスコ・ザビエルから洗礼を受け宣教師となったロレンソに論争をしかけました。ロレンソの真理に基づいた言葉に、彼らはキリストの教えに心を開いていきました。
 山城守と清原枝賢はすぐに洗礼を受けました。

 1563(永禄6)年には、飛騨守もダリオという霊名で洗礼を受けました。
 翌年には、ダリオ飛騨守の妻子や家臣など150名程が受洗し、当時10歳ほどであった長男右近はユストの霊名を受けました。

 飛騨守はキリシタン保護者であった和田惟政(わだ これまさ)の配下となり、芥川城を与えられました。その後高山父子は、1571(元亀2)年ごろには、高槻城に入りました。
 1573(元亀4)年の中川、荒木軍との戦いで惟政が戦死しましたが、高山父子の働きによって高槻城は死守されました。しかし、惟政の息子惟長(これなが)が後を継ぎ、高山父子の暗殺を謀りました。人望の厚かった高山父子は、荒木村重と結びこれを逃れて、惟長を討ちました。
 1573(元亀4)年、ダリオ飛騨守が高槻城主となりました。ダリオ飛騨守は翌年隠居して、右近が跡を継ぎ21歳で高槻城主となりました。

 右近の領内となった、高槻には日本庭園に囲まれた荘厳な聖堂が建設され、オルガンティノ神父の報告によると、ここで4千人もの人たちが洗礼を受けました。

 1578(天正6)年、摂津守護であった荒木村重が織田信長に謀反を起こしました。右近は、この戦いにはじめから反対でしたが、村重の配下にあった右近は、妹と長男を忠実のあかしとして人質に送っていました。

高槻教会 高山右近像
高槻教会 右近像

信長は、京都と大阪を結ぶ要所となる高槻を落とすため、謀反はキリスト教の教えに反すると右近に使者を送り開城を迫りました。右近は、祈った末に、城を明け渡しました。
 父ダイオは、村重の居城であった有岡城に入り、自分と人質が村重とともに戦うことを村重に訴えました。村重は激怒しましたが、家来たちの助命により、ダイオと人質は無事解放されました。

 1582(天正10)年、本能寺の変によって信長が討たれた後、右近は豊臣秀吉に仕え功績を挙げました。
 また、右近の福音的な生き方は、多くの武士に影響を与えました。牧村政治(まきむら まさはる)や蒲生氏郷(がもう うじさと)、黒田官兵衛孝高(くろだ かんべいよしたか)、瀬田掃部(せた かもん)らを洗礼へと導きました。

 右近は、1585(天正13)年に播磨国明石に移封となり明石城主となり、明石教会を建設しました。

 1587(天正15)年7月、秀吉は突如「伴天連追放令」を発布しました。さらに、秀吉は右近に信仰を捨てるようにせまりましたが、右近は領地と財産をすべて捨ててその信仰を守り続けました。

 明石を出た右近は、能古島に渡り、その後小西行長の領地であった淡路島、小豆島、南肥後(熊本県 宇土、八代、天草)に隠れ住みました。
 南肥後では、島原の有馬領に匿われていたコエリヨ神父を訪ね、有家で右近は、イグナチオの霊操による黙想を行いました。

 1588(天正16)年、前田利家の招きにより、客将として加賀(金沢)に入りました。右近はこの地で、金沢城の修築や新丸の築城、東西内惣構堀の工事、高岡城の築城などを行いました。
 また、自らを「南坊」と名乗り、熱心に宣教活動を行いました。

 しかし、1614(慶長19)年に徳川家康によって「キリスト教禁止令」が発布され、宣教師と信徒は追放されることになりました。右近も、金沢から長崎に護送されました。長崎では、トードス・オス・サントス教会の近くに宿泊所が与えられました。
 その年の11月、家康の命によって、右近はマニラへ追放されました。

 マニラでは、右近の信仰をたたえて大歓迎を受けましたが、船旅の間に体調を崩していた右近は、1615(慶長20)年2月3日に63歳で亡くなりました。盛大な葬儀が行われました。
 マニラのパコ(PACO)駅前広場には、右近の銅像が建てられています。

 2017年2月7日、ユスト高山右近は大阪で列福されました。



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