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教会カレンダー

A年 年間第24主日

第1朗読 シラ書 27章30~28章7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 14章7~9節

福音朗読 マタイによる福音書 18章21~35節

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今日のテーマは、ゆるし、しかも無限のゆるしです。

神からゆるされているからこそ 人は生きていける、人は自分をも含めて限りある弱い存在であることに気づかせてくれます。そこからおのずと神を認め、賛美する心が生まれます。

第1朗読には、「願い求めるとき、お前の罪は赦される」とありますが、実は願う前にすでにゆるしを、無限のゆるしをいただいているのです。今日の福音はそれを示してくれています。

今日の典礼は、「主の祈り」に光を投げかけてくれます。真のゆるしの特性について思いめぐらし、祈らせていただく1日としたいと思います。

ゆるしの秘跡についてこの機会に深めたい方のために、2冊の短い本をご紹介いたします。
 ・ゆるしの秘跡 神のゆるしを喜び歌おう
 ・目からうろこ ゆるしの秘跡

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第1朗読は、シラ書、別名集会の書です。この書は、紀元前2世紀に書かれ、預言書を除く旧約聖書の中で、唯一著者が明らかになっている書と言われています。当時のギリシア世界の慣例に従い、自分でその名を記しているからです。

著者ベン・シラは、律法の専門家でした。エルサレムで、この偉大な書に取り組み完成したと言われています。この書は、カトリックのみ聖典としているところから、新共同訳聖書には「続編」の中におさめられています。

シラ書は、序、第1部 格言集、第2部 神の偉大さ、付録とから成っており、今日読まれる箇所は第1部からです。

律法と預言に通じていた彼は、ユダヤ人の信仰に基づく知恵と、生活体験をふまえて書いており、今日読まれる箇所は、律法の中でも中心と言われた レビ記19章18節を念頭においています。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19章18節)。
 ここで言われている隣人とはだれを指すか、ということが当時のユダヤ人にとり、最大の関心事でした。

今日は、ゆるしに関してベン・シラのすばらしい箇所を読みますが、彼は、隣人愛の掟の中で、すでにイエスの考え方の先駆けをしていたのです。

シラ書を教会カレンダーの中で読むのは数回だけなので、このような機会を通じて、シラ書の通読を試みてはいかがでしょうか。

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第2朗読は、ローマの信徒への手紙14章からです。ここで、ローマの教会において各々の実践の違いが問題になっていることが触れられています。

聖パウロは、食べるのも食べないのも 主のためであると言って、大切なのは、何を食べるかではなく、みながキリストに結ばれていることであると言います。

教会一致の理念の中心は、唯一の神、唯一の主であるということなのです。

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とは、何と力強い響きで私たちに迫ってくる確信の言葉でしょうか。ここに視座をおくと、いろいろのことは相対化されてきます。

皆さんは、このキリストを主と告白する生き方を、どう感じられますか。

彼は、愛についてのすばらしい教えを説き、しかも、「愛は律法を全うするものです」と言い切っています。
 キリストに結ばれた者に求められていることです。

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先週の福音では、兄弟姉妹の罪をきちんと問う姿勢、問い方について述べられました。
 それに対して、使徒ペトロは「何回赦すべきか」とイエスに問います。

この問いに、イエスは、「七の七十倍まで」と答えられます。計算問題ではないのです。際限のない、無限のゆるしについて、たとえで答えられます。

1万タラントンと、100デナリオン。
 タラントンとは、金属の重さを量る最高の単位で、通貨にすると、1タラントンは、6000デナリオン。デナリオンは、ローマ帝国の通貨で、労働者1人の1日の労賃に相当するもので、当時ローマの兵卒の年俸は300デナリオンであったと言われています。

弟子たちが、5000人の群衆にパンを買うためには、200デナリオン必要でした。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(マルコ 6.37)。つまり、25人に1デナリオンです。

1万タラントンは、100デナリオンの60万倍。タラントンの額は、あまりにも大きいので日常生活では使われていなかったということです。日本円にすると、30~40億円になるとか。

ですから、計算のことではなく、神のゆるしは、私たちが神からゆるされている負債と比べるなら、兄弟・姉妹をゆるすことは、わずかであるということです。

神のあわれみ、ゆるしは無限であるということです。しかし、このゆるしを乱用すると……。

私たちは聖書を読みながら、この僕に対して、なんと言うことかと怒ったり、批判したりしますが、実はこの狭い心の僕は、私たち自身でもあるのです。
 兄弟・姉妹に対する私たち自身の心の姿勢は?と問う日としてはいかがでしょうか。

今日は、主の祈りを共に祈るとき、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」を特別、心にとめながら祈りたいものです。

祈り

 天地万物を造り、治められる全能の神よ、
   あなたの民を顧みてください。
   わたしたちが救いの力を知り、
   心を尽くしてあなたに仕えることができますように。
集会祈願より

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第1朗読 シラ書 27章30~28章7節

憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。
罪人にはこの両方が付きまとう。
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。

隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、
願い求めるとき、お前の罪は赦される。
人が互いに怒りを抱き合っていながら、
どうして主からいやしを期待できようか。

自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、
どうして自分の罪の赦しを願いえようか。

弱い人間にすぎない者が、
憤りを抱き続けるならば、
いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。

自分の最期に心を致し、敵意を捨てよ。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。

掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、
他人のおちどには寛容であれ。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 14章7~9節

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、
だれ一人自分のために死ぬ人もいません。

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

キリストが死に、そして生きたのは、
死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

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福音朗読 マタイによる福音書 18章21~35節

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。
七回までですか。」

イエスは言われた。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

そこで、天の国は次のようにたとえられる。
ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、
自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』と
しきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、
捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。

そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
わたしがお前を憐れんでやったように、
お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
そして、主君は怒って、
借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

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