教会カレンダー
B年 待降節第3主日
第1朗読 イザヤ書 61章1~2a、10~11節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節
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第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知〔させるために。〕
わたしは主によって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
主は救いの衣をわたしに着せ
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ
花嫁のように宝石で飾ってくださる。
大地が草の芽を萌えいでさせ
園が蒔かれた種を芽生えさせるように
主なる神はすべての民の前で
恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。
すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、
わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、
非のうちどころのないものとしてくださいますように。
あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。
光について証しをするため、
また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。
エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、
「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、
ヨハネは、「違う」と言った。
更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
そこで、彼らは言った。
「それではいったい、だれなのです。
わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。
あなたは自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
彼らがヨハネに尋ねて、
「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、
なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、
あなたがたの知らない方がおられる。
その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、
ベタニアでの出来事であった。
待降節も半ばを過ぎました。待降節第3主日は、昔から「喜びの日曜日」と呼ばれていました。
喜びは、神が望まれることに従って生きる人の心のしるしと言われています。今日の朗読は、すべて喜びにあふれています。
今日の典礼が伝える喜びとは何なのでしょうか。
長かった旧約の歴史も、洗礼者ヨハネの登場によってまもなく終わりを告げ、救い主キリストの到来の喜びがもうそこまで来ている、キリストが間違いなくすぐ来てくださるという大きな喜びを、聖書は精一杯表現しようとしています。
「どうすればよいのでしょう」との人々の問いかけに、洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方がこられる」と告げます。
どの朗読もみな、絶望的な状況にもかかわらず体験することのできた本当の「よろこび」を伝えています。
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第1朗読は、第3イザヤ書からです。イザヤ60~62章は第3イザヤ書の中心、頂点となっています。バビロン捕囚(ほしゅう)から帰還した民は、経済、社会、宗教面の困難、苦しみを味わいます。イザヤは、その民に励ましの言葉を語っています。
神は、民をあわれみ、救い主をおつかわしになります。救い主は喜びのうちに大赦の年、喜びの年(=恵みをお与えになる年)を公布されます。そして、民はこれに応えて、喜び、感謝の歌を歌います。
実に今日の朗読は、喜びの雰囲気に満ちています。
今日の最初の節は、預言者の召命について語られています。預言者の使命こそ、「よい知らせを伝える」ことです。
つまり、
「打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させる」ことです。
今日の朗読に聞き覚えがありませんか。
そうです。ルカによる福音書の4章で、イエス・キリストが宣教をはじめられた時に、読み上げられ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されたものです。
ですから、今日の答唱詩編は、詩編ではなく、これに呼応するマリアの賛歌が歌われています。このマリアの賛歌を力強く歌って、私たちの応答としましょう。
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第2朗読で読まれるテサロニケの信徒への手紙は、パウロの一番最初の手紙です。コリント滞在中に書かれ、この手紙をとおして、パウロが各地に残してきた信徒たちへの思いがうかがわれます。
パウロのもたらした福音は、パウロのみならず、信徒たちにも苦痛の種となり、パウロ自身もいのちをねらわれる程でした。
パウロが、どれほどテサロニケの信徒たちのところに戻りたいと切望していたかがあふれ出ています。しかし、彼のこの望みは実現できず、弟子テモテをアテネから派遣しました。テモテはテサロニケに行って、パウロにとってよいニュースをもって帰ってきました。このニュースはパウロをどれほど安心させ、彼に喜びと感謝をもたらしたでしょうか。
今日読まれる箇所は、パウロが手紙の中で、主の再臨の備えを勧めてきた5章の結びの部分です。なんと、パウロは主の来臨について4回も手紙の中で言及しているのです。
神は、私たちキリスト者がどのような心でいることを望んでおられるのでしょうか。パウロは、この点についてはっきりと述べるのです。
今日の朗読箇所だけでなく、5章だけの短い手紙なので、すべてを読まれることをお勧めします。
パウロの、信徒への愛情深い心に、触れることができます。
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福音書では、先週に続いて今日も洗礼者ヨハネが登場します。今日は、ヨハネによる福音書からです。
ヨハネによる福音書は、一番最後に書かれた福音書なので、洗礼者ヨハネの生涯についても、その意義が深く考察されています。
ヨハネは、共観福音書の「主の道を整える先駆者」というより、「証しをするために来た」洗礼者ヨハネ像を紹介します。
「証しする」ことは、ヨハネによる福音書の中心テーマで、「証し」は14回、「証しをする」は33回福音書の中に使われています。
洗礼者ヨハネは、キリストの証しを自分の発意で行うのではなく、父なる神から遣わされ、キリストがイスラエルに現れるように、証しします。洗礼者ヨハネもキリストと同様、いのちをかけて真理を証しします。
洗礼者ヨハネの宣教は大きな反響を呼び、彼がメシア(=キリスト=救い主)なのでは?、という問いや期待を、人々の中に引き起こしました。その中で、彼は人々に知られていないキリストに向けて民を導き、まことに「主の道を整える先駆者」となったのです。
「荒れ野」、「叫ぶ」、「証しをする」。
「荒れ野」は、夜は冷え、昼は激しい暑さで、水に恵まれない地です。不毛でいのちの生存を許さない荒れ野は、神のみに頼ることしか道のない試練の場です。
また、「荒れ野」は、人間の罪によって神の祝福が失われた世界のシンボルです。さらに、預言者たちは、罪に汚れ、神の祝福を失った人間の心をも「荒れ野」と呼びます。
この「荒れ野」に呼びかけ、神への回心を呼びかける叫ぶ声があります。
声も聖書にはいろいろあります。
洗礼者ヨハネの声は、神を無視して生きる人々への呼びかけの叫びの声です。
この声を、そして、この声が予告することを、私たちも今日聞き取りたいものです。
祈り
喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、
この救いの神秘を祝うことができますように。
集会祈願より
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