homeキリシタンゆかりの地をたずねて物語一覧 > 八代の殉教者たち

キリシタンゆかりの地をたずねて

ゆかりの地

物語

八代の殉教者たち


宇土城跡にある小西行長像
宇土城跡にある 小西行長像

16世紀の終わりごろ、現在の熊本県は南肥後と北肥後に分かれていました。北肥後の領主は加藤清正で、城下町は熊本でした。南肥後の領主は、アウグスティノ小西行長で、その本城は宇土にありました。

加藤清正は、日蓮宗の熱心な信徒で、小西行長は幼いころから、キリスト教徒として育ち、家族も主だった家臣も熱心なキリシタンでした。また、秀吉軍において、加藤は陸軍、小西は水軍を指揮していたため、2人は宗教的にも、政治的にも常に対立状態にありました。

1588年に、行長が南肥後に移り、家臣のジョルジョ結城弥が矢部の愛藤寺城の城主となり、ディエゴ小西美作(こにし みまさか)は八代(麦島)の城代となりました。

秀吉の存命中はキリスト教の布教を公然と行えませんでしたが、秀吉が亡くなると自由に布教を行えるようになり、イエズス会の宣教師たちは領内の全地方で宣教活動を開始しました。
 八代では、ジョアン・バウティスタ・デ・バエサ神父や、中浦ジュリアン、伊予シクストが宣教を行い、2年間で数万人が洗礼を受けました。

しかし、1600(慶長5)年関ヶ原の合戦において、行長が敗れ、京都の河原で首を切られると、徳川方についた加藤清正が、すぐに小西領土を奪いました。宇土で城を預かっていた隼人は死罪となり、八代の城主ディエゴ小西美作は、無意味な流血をさけるために薩摩に逃れました。

さらに、清正はキリシタンたちに日蓮宗への改宗を命じました。この時領内に残っていた信徒は、若い武士や 農民、商人などでした。肥後に自由に入れない宣教師たちは、信徒の数人を選び、彼らにその教会を委ねました。彼らは「慈悲役」と呼ばれました。八代の慈悲役は、ヨアキム渡辺次郎左衛門、ミカエル三石彦右衛門、ヨハネ服部甚五郎の3人でした。

カトリック八代教会 殉教碑
カトリック八代教会 殉教碑

八代の最初の殉教者は、若い武士とその家族でした。1603年12月8日、ヨハネ南五郎左衛門は熊本の権左衛門の屋敷において、12月9日にシモン竹田五兵衛は八代の城下の自分の屋敷で斬首されました。

その日の夕暮れ時、麦島の刑場で、竹田の母ヨハンナと妻アグネス、南の妻マグダレナとその養子、7歳のルドビコ南が、磔刑で殉教を遂げました。4人は十字架上からも神を賛美し、信仰を宣言しました。彼らの遺体は朽ち果てるまで十字架上にさらされました。

殉教者を支え、遺体を秘かに有馬と長崎に送った慈悲役たちは、1605年に投獄されました。長い牢獄での生活の後、1606年、ヨアキム渡辺は獄中で病死しました。
 1609年2月4日、ミカエル三石とヨハネ服部も麦島で斬首されました。その時、13歳であった息子トマス三石と5歳のペトロ服部も処刑されました。

殉教者たちの遺骨は、信徒の手によって有馬に運ばれ、長崎を経て、1614年、追放された宣教師たちによりマカオに移されました。1995年、マカオが中国に返還された時に、遺骨は日本に戻りました。

カトリック八代教会には、殉教者たちの記念碑が建てられ、毎年12月に殉教祭が行われています。

※八代殉教祭:

  • 日時:2008年12月7日(日)
  • 場所:カトリック八代教会


▲ページのトップへ