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熊本の殉教者 小笠原玄也一家


熊本城
熊本城

1636(寛永13)年、小笠原玄也と妻みやと子どもたち、さらに奉公人の15人が殉教しました。
 みやは、小倉で殉教したディエゴ加賀山隼人の娘で、玄也の父は、細川忠興の夫人ガラシャを介錯して自害した小笠原少斎(しょうさい)秀清でした。

1614(慶長19)年、徳川幕府の禁教令が出たとき、忠興は重臣であった玄也に棄教を勧めましたが、「不転書物」(ころばざるかきもの)差し出して、信仰を捨てる意志のないことを表しました。
 玄也一家は本禄を失い、23人の扶持(ふち:1日当たり、大人1人の消費分とされる5合の俸禄米が支給される武士)を与えられ、田舎に追放されました。
 この間に、中浦ジュリアンがこの一家を訪れたといわれています。

1619(元和5)年にディエゴ加賀山隼人を処刑した際、玄也一家がそのまま差し置かれたのは、少斎の恩義からと思われます。

忠興が隠居して、忠利が領主となり、1632(寛永9)年に肥後豊後の領主となり熊本城に移ったとき、玄也も忠利の命により、熊本に移り、塩屋町に住んでいました。

1635(寛永12)年にキリシタンの検挙が全国一斉に行われることになり、玄也一家が訴人されることを恐れた忠利は、玄也に棄教を勧めるように江戸から重臣に手紙を送りました。
 忠利は何とかして、玄也一家を保護し、助けたかったのでしょう。しかし、玄也は、忠利や知人たちの親切に感泣しながらも、信仰を捨てることはできないことを伝えました。

禅定院
禅定院

1635(寛永12)年、報奨金目当てに、玄也を長崎奉行に訴える者が現れ、忠利は玄也一家を守ることはできなくなりました。重臣たちは、塩屋町の田中兵庫邸の裏にあった座敷牢に一家を入れ、そのことを江戸にいた忠利に知らせました。

忠利は、「長崎奉行所から、こちらで処理せよということであるなら、牢舎に入れておけ。そして余り厳しくいってこないなら、墾に扱っておけ・・・」と返事を送っています。

この忠利の思いやりによって、玄也一家は殉教までの50日間を静かに、この牢で過ごすこととなりました。
 彼らは、ここで形見わけの書付をつくったり、遺書を書いたりしました。遺書は16通残っており、玄也7通、みや5通、4人の子どもたちが4通です。
 これらは、当時まだキリシタンだった、みやの従兄弟にあたる家老・加賀山主馬可政(かがやま しゅめよしまさ)にあずけられました。

みやの遺書の中に、捨てることができない宗教であること、さらに自分が女でありながら殉教できることを感謝したこのような一文が書かれています。
 「女の身としてかやうの死にいたしたく御座候はんや、ありがたき事ことばに述べて申せず、なかなか申さず候。捨てがたき宗旨故かようになり参らせ候」

玄也一家は、1636(寛永13)年1月30日熊本市の花岡山の麓にある禅定院において斬首され殉教しました。
 4人の奉公人は、名前も性別もはっきりしませんが、玄也一家と小倉時代から20年以上の貧しく苦しい生活を共にした熱心なキリシタンであり、玄也の家族ともいうべき人たちであることは確かなことといえるでしょう。

花岡山にある「加賀山隼人正息女墓」
花岡山にある「加賀山隼人正息女墓」

江戸時代末期の文政年間に、花岡山の中腹で「加賀山隼人正息女墓」と刻まれた墓碑が発見されました。「加賀山隼人正息女墓」とだけ記されたのは、細川家重職の地位にあった小笠原の名を刻むことを憚ったためか、または加賀山主馬が加賀山家につながる殉教者たちの遺骨をここに葬り、自然石に「加賀山隼人正息女墓」と記するにとどめたかであろうと思われます。
 どちらにしても、キリシタンとして葬られた、キリシタンの墓が公に残っているのはこの墓だけです。

現在は、この墓の横には、殉教した玄也一家名前が刻まれた殉教碑が建てられています。

殉教した小笠原一家
小笠原 玄也
マリアみや  玄也の妻、ディエゴ加賀山隼人の娘
源八  玄也の長男
まり  玄也の長女
くり  玄也の次女
佐々衞門  玄也の次男
三右衛門  玄也の三男
四郞  玄也の四男
五郞  玄也の五男
つち  玄也の三女
權之助  玄也の六男
奉公人
奉公人
奉公人
奉公人
奉公人


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