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キリシタンゆかりの地をたずねて
盲目のダミアン
ダミアン殉教碑
山口で殉教した盲目の伝道師ダミアンの日本名や家族については、よくわかっていません。堺の生まれで、1586(天正14)年ごろに山口で洗礼を受け、45歳ごろに殉教したとされています。
ダミアンは目が見えませんでしたが、雄弁で、洗礼を受ける前は琵琶法師でした。山口のキリシタンたちの援助を受け、説教師として多くの人にキリストの教えを説きました。
1550(天文19)年にフランシスコ・ザビエルが大内義隆に会い、布教の許可を受けて山口でのキリスト教の布教がはじまりました。しかし、5年後に大内家が陶晴賢によって滅ぼされ、毛利氏に変わりキリシタンに対する弾圧がはじまりました。
1587(天正15)年の豊臣秀吉が出した伴天連追放令によって、山口にいた宣教師たちも撤退し、教会は閉鎖されました。
この少し前に洗礼を受けていたダミアンは、司祭がいなくなった後、キリストの教えを説き、人びとに洗礼を授け、病人を訪問し、信者たちを励まし続けました。
ダミアンの殉教地
関ヶ原の合戦後、毛利輝元は萩に城を建て居城としたため、山口には宣教師も戻りキリシタンはつかの間の平穏な時期を過ごしました。しかし、徳川氏からキリシタンへの取り締まりの通達があり、輝元は宣教師たちを再び山口から追放し、信徒たちの改宗を命じました。
さらに教会の中心人物であったメルキオール熊谷元直とダミアンの処刑を決めました。
役人たちは、ダミアンにキリスト教を棄てるように勧めましたが、彼がそれを拒んだため、ダミアンをだまして「用事があるから湯田に行く」と言って馬に乗せ、しばらく行くと脇道に入り、処刑するためにダミアンを一本松というところに連れて行きました。
ダミアンは盲人であっても道がよくわかっていたので、「わたしをだましたつもりか。わたしに夜道などない。まして刑場への道は鮮やかに見える。」と言って馬から飛び降りました。そして、「わたしには用意ができている。信仰のために死ぬことは大きな喜びである」と言い、静かに祈り首をさしだして太刀を受けました。
ダミアンの遺体は、信徒たちに見つからないように細かく切断され、川に流されましたが、信徒たちは必死に遺体を探し、首と左腕を茂みの中に見つけて長崎のセルケイラ司教のもとに届けました。