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支倉常長


イタリアのチヴィタヴェッキア 日本聖殉教者教会 壁画
イタリアのチヴィタヴェッキア 日本聖殉教者教会 壁画

支倉常長(はせくら つねなが)は、1571(元亀2)年に伊達家の家臣であった山口常成の子として出羽国置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市)に生まれました。

 7歳で、伯父支倉時正の養子となり、陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県柴田郡川崎町大字支倉)の上楯城(かみだてじょう)で、嗣子として過ごしました。その後、時正に実子・久成が生まれたため、政宗の命により家禄1200石を二分し、常長は分家して600石取りとなり、伊達氏の家臣として活躍しました。

 鉄砲、足軽組頭として仕え、文禄の役では朝鮮へ従軍しました。

 1613(慶長18)年、伊達政宗は慶長遣欧使節として支倉常長の一行をスペイン(エスパーニャ)領メキシコ経由で、スペイン、ローマへと派遣しました。この時伊達政宗は、小伝馬町の牢に捕らえられていたフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを家康から許可を得てともに派遣しました。

 常長一行は、90日間の航海の後、当時スペイン領だったメキシコのアカプルコに入港し、スペイン艦隊に便乗し、日本人として初めて大西洋を渡りスペインに向かいました。

イタリアのチヴィタヴェッキア支倉常長像
イタリアのチヴィタヴェッキア支倉常長像

一行は、ベラクルスを出帆し、途中キューバのハバナに寄港して、スペインに上陸しました。コリア・デル・リオ、セビリアを経て、首都マドリードに到着したのは、1614(慶長19)年12月のことでした。ここでスペイン国王フェリペ3世に謁見し、政宗の書状を渡しました。

 その後、常長は国王隣席のもとドン・フィリッポ・フランシスコの霊名で洗礼を受け、イタリアのローマへと向かいました。1615(元和元年)年11月3日、支倉常長はついにヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世と謁見し、常長は、ローマ市公民権証書を授与されました。

 1616(元和2)年に、常長はローマを出発し、再びスペインに入り、政宗へのフェリペ3世の返書を受け取ります。その返書の内容は、不十分なものでした。翌年常長は、セルビアから通商の許可を再度願う書状を送りました。しかし、数年に渡っておこなった通商交渉は成功しませんでした。
 1618(元和4)年、一行はメキシコに戻り、フィリピンのマニラに着き、ここに2年間滞在し、ソテロを残して帰国の途につきしました。

 1620(元和6)年、常長たちはようやく帰国しました。その直後、仙台藩領内にキリスト教禁止令が発布されました。  翌年7月、常長はその業績を評価されることなく亡くなった。

 同じ年の10月、ソテロはマニラから密入国しようとして捕らえられ、大村藩の牢に投獄され、1624(寛永元年)年、放虎原で火刑にされ殉教しました。



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