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新世紀ルーツへの巡礼

目次

創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日

2) その時、シスターテクラ・メルロは?

阿佐ヶ谷修道院前で
阿佐ヶ谷修道院前で

パウロの娘たちが来日してからまだ1カ月も経っていない時のシスターテクラ・メルロの訪問は、喜びはさながら彼女たちにとってとても心強いものでした。

パウロの娘たちは、阿佐ヶ谷で子どもたちのために日曜学校を開き、日本の初期の入会者である若い人たちも何人か迎えていました。

アルベリオーネ神父は、最初聖パウロ会のための黙想指導を行い、その後パウロの娘の黙想指導をしました。「たった4人のために……私たちはとっても幸せでした」とシスターイレネ・コンティは当時を思い起こしながら語っています。

彼は、志願者たちの部屋も訪問し、彼女たちにも短い講話をし、励ましたのでした。

阿佐ヶ谷での日曜学校
阿佐ヶ谷での日曜学校

当時パウロの娘たちは、創立者の勧めに従って家庭訪問による宣教をしたいと思い、東京教区長土井大司教の許可を待っていました。土井大司教は、この方法は日本には適していないということで、まだ許可を与えていませんでした。しかし、アルベリオーネ神父が土井大司教にあいさつに行った時、家庭訪問による宣教を説明し、許可を求めると、すぐ許可が出ました。

その時の状況は、次回にシスターイレネ・コンティのインタビューの証言からご紹介したいと思います。

シスターテクラ・メルロは、日本人の間では家庭訪問による宣教は難しいのではないか、シスターたちが行う家庭訪問による宣教を日本人がどのように受け取るだろうかと心にかけていました。

そのため、宣教女たちはシスターテクラ・メルロの滞在中に、ぜひこの方法での宣教を実践しようと思い、まず2人のシスターが聖パウロ修道会に行って、家庭訪問をする場合のあいさつの言葉を書いてもらい、数冊の本を手さげカバンに入れて四谷見附から宣教に出かけました。

最初は、市ヶ谷駅前で降り、その周辺の家を訪問しました。この最初の訪問は、人びとから迎え入れられました。この報告を受けたシスターテクラ・メルロはとても喜びました。その後も、シスターたちは町の中の家々に出かけて行きました。この宣教のあり方は、修道生活は修道院の中で祈っているものだと思っていた人びとには驚嘆の的であり、教会のある人びとからは、修道女が商売をしている、と非難のもとになりました。

しかし、修道院の所属している高円寺教会の主任司祭は、家庭宣教を通じて求道者が教会に送られてきていたので、家庭宣教を高く評価していました。

やがて、アメリカ人のシスターは、アメリカ軍兵士の間にも宣教活動を行いました。そればかりか、米兵の寛大な寄付で、志願者の衣食住も大いに助けられました。

最初の志願者たちは、修道院に若い女性を招いてカトリック要理を教え、信仰への道や修道生活の道に導く活動もしました。このような使徒職は、後にシスターたちが、日本全国に発展していく中でも続けられました。

◆6--4 創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日


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