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新世紀ルーツへの巡礼
創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日
1) アルベリオーネ神父の第一回目の来日-シスターテクラ・メルロと共に-
創立者のはじめての来日
アルベリオーネ神父がインドからフィリピンに到着すると、シスターテクラ・メルロは彼と一緒に東京に向けて旅行を続けることになります。
1934年に、聖パウロ会が日本に創設されてから第2次世界大戦のさまざまな苦難をくぐり抜けて15年が経っています。1948年には、聖パウロ女子修道会が来日し、1949年の3月には、戦後はじめてイタリアから1人の司祭とブラザーを迎えました。
1949年5月、アルベリオーネ神父はシスターテクラ・メルロと共に、当時東京の国際空港であった羽田に到着しました。
創立者であり、総会長であるアルベリオーネ神父をこの地に迎えた会員たちの喜びは大変なものでした。当時65歳になっていた創立者は、白髪のやさしさをこめたまなざしで、会員たちを励ましました。
それは、日本を占領していた連合軍の軍政が終わろうとしいるときでした。中国で共産軍が勝利をおさめたということで、日本の産業を骨抜きにすることを考えていたアメリカは、その政策を転換せざるを得ない状況にありました。日本が、極東の安全のために防衛上必要になってきたからです。
48年には、民間の放送局設置に関する情報をキエザ神父が入手し、これは自分たちの使命であると考え、そのためにマルチェリーノ神父が積極的に動き、必要な研究を進め、カトリック信徒の方々にもいろいろな協力を願い、「財団法人文化放送」の設立の道が開かれました。後に聖パウロの娘たちもこの放送局で働くことになります。創立者が来日した日は、ちょうどこの文化放送の定礎式の直後でした。
アルベリオーネ神父は、宣教を推し進めるために、日刊新聞の発行の可能性を提案し、司祭たちの意見を求めましたが、その時には文化放送に力を入れている時でもあったので、新聞の方は時期を待ち、放送の方に全力を注ぐことになりました。
アルベリオーネ神父は、滞在中あちこちを見て回り、四谷見附の一角の土地を「あの土地はいいから購入しなさい」と指示しました。あの時代、創立者の指示は弟子たちにとって絶対のものだったので、会員たちは、一生懸命努力し買収不可能と見えたその土地を購入しました。それが現在、サンパウロビルの建物のある所です。
アルベリオーネ神父は、各国のパウロ家族修道院を訪問しながら、会員と面接し、彼らがなしたことについて情報を交わし、みなの上に神の恵みを求めて祈り、前進するための指示を与え、彼らが出合っている困難に際しては慰め励ましていました。
パガニーニ神父は、次のように証言の中で語っています。
1936年末、インドに派遣されていた私に、アルベリオーネ神父は日本に行ってパウロ・マルチェッリーノ神父を手伝わないかと尋ねてきました。彼は、東京で自分たちの使徒職をはじめようとしていたのですが、そこも受け入れ側との関係はインドの場合と似たり寄ったりでした。自分たちの使徒職ではなく、東京で開設されようとしていた小教区の司牧を担当しなければならない状態でした。
しかし、時の経過とともに、ものごとはインドでも日本でも時が熟してきて、アルベリオーネ神父の考えを実現できるようになり、両方の国で聖パウロ修道会として承認されました。私たちの創立者の考えは基本的に正しいことが明らかになり、これも彼の祈りが時を熟させたということでした。
私は日本で管区長を三期目でした関係上、アルベリオーネ神父が日本を何回も訪問したときに近く接する機会を多くもちました。
彼は、非常に開けた考えの人で、第1回目の日本訪問の時には、東京で日刊紙を始める可能性はないのか、と私に尋ねました。既存の日刊紙で、廃刊にしようとしているものがあればそれを続け、言葉や表現にこだわるよりもカトリックの考えを入れていくようにしたらよい、といっていました。
しかし、残念ながら、そのころ私たちはすでに東京で民間放送局を開設することに全力を結集させていたので、二兎を追うことにならないためもあって、そのことについてはそのままになりました。
日本訪問の時でした。東京四谷の大きな道が交差する地点に、私たちの出版社を設置したらよいと彼がいったことを思い出します。
すでにそこに私たちが目星をつけていた土地があって、なんとか手に入れようとしていましたが、できないでいたところでした。そこで、彼のことばに従ってもう一度試みると、成功したのです。
この出版社を何回も建て直す間に、道路に面した二階の壁面にくぼみをつけて使徒の女王の像を置いたところ、これを知ったときの彼の喜びようはたいへんなものでした。いつでも、「マリアをとおしてイエスへ」と言っていましたから。
アルベリオーネ神父は、日本人は向学心のある民族、真理の探究とか理論づけをすることに熱心な人たちなので、この民族が福音を知るように、この人びとに真の神を告げることを強く望み、会員が同じようにその情熱に燃えるように、会員のなかに、宣教者の精神、使徒の精神が燃えあがるようにと話しました。
「サンパウロ」の前身「中央出版」
アルベリオーネ神父の訪問に際して、創立者にいっそう近くから接して、何が印象深いことでしたか、との問いにパガニーニ神父は次のように答えています。
アルベリオーネ神父は、東洋の諸民族全般と、日本人について、それぞれの国の人口のデータを集めていて、この統計を見て、深く心を痛めていました。
「この人びとのほとんどがまことの神を知らない、まだ真理の光を十分に受けていない」と。
彼のなかには、20世紀がはじまるあの夜にあったあえぎともいえる激しい望み、「今の、この人びとに、何か善を行う」という渇望が、真の神を知らないこの民族に対して燃えていました。ですから、「彼らに福音を運んでいきたい」と。
この統計を小さな紙に印刷させて、私たちにも配り、この点に私たちも情熱を燃やすようにと、望んでおられました。このことは、とても印象深く心に残っています。
◆6--4 創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日