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新世紀ルーツへの巡礼

目次

創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日

3) シスターイレネへの証言

家庭訪問宣教で
家庭訪問宣教で

1948年に私たちは日本に来ましたが、翌年にアルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロが日本に来られました。私たちは、まだ阿佐ヶ谷にいました。アルベリオーネ神父はたった4人だけの私たちに一週間の黙想会の説教を毎日してくださいました。とても幸せでした。

そのとき、私たちはまだ使徒職ができませんでした。家で、自分たちだけで勉強しながら、土井大司教様のお返事を待っていました。プロパガンダ(家庭訪問宣教)を許可してくださるかどうか……。プロパガンダは日本には適していないから、だめだと大司教様は思っていらっしゃるから、きっと許してはくださらない、とマルチェリーノ神父はいつもいっていました。ですから、私たちはまだ何もできませんでした。

ところが、アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロが来日され時、アルベリオーネ神父は大司教様にあいさつに行き、使徒職のことを話し、プロパガンダの許可を求めました。その時まで、マルチェリーノ神父が何回も願ったのに、日本のために適当でない、といって許していただけなかったのでしたが、アルベリオーネ神父が大司教様に説明し、プロパガンダの許可を願うと、大司教様は「はい」と言われたのでした。

マルチェリーノ神父は、非常に驚いて、「私に、何回も“ノー”、ノー”と言っておられたのに、アルベリオーネ神父が口を開いただけで、“はい”、とおっしゃった」と言っていました。

私たちは、シスターテクラ・メルロが日本に来られたのがとてもうれしかったので、日本にいらっしゃる間に、日本人がプロパガンダをする私たちをどのように迎えてくれるか、体験したいと思いました。シスターテクラ・メルロは、日本人がどう受けるか、心配しておられましたから。

シスターテクラ・メルロの日本滞在は一週間ぐらいの予定でした。そこで私は、「シスターテクラ・メルロが日本滞在中に、プロパガンダをやりましょう」と言うと、シスターテクラ・メルロは賛成してくださいました。

そこで、パガニーニ神父を書院に訪ね、私たちは、まだ日本語ができなかったので、「パガニーニ神父様、文章を書いてください。どのように、日本人に私たちの訪問を説明したらいいでしょうか」とたのみました。すると、パガニーニ神父は、新聞のために長年一緒に働いていた信徒に尋ね、説明の文章を準備してくれました。

そして、パガニーニ神父が、私たちにプロパガンダにもっていく四種類の大人用の本と、四種類の子ども用の本も準備してくれたのでした。その年は、ちょうど聖フランシスコ・サビエルの来日四百年祭の年だったので、宣教のためのよい機会でした。

私は、アメリカ人のシスターヴィンチェンツァと一緒に出かけました。一つの用事があったので、それを済ませ、電車に乗り、「どこで降りましょうか」と話し合いました。私が彼女に「降りるときに、『ここ』と言ってください」と言うと、「一つめの駅!」という返事で、けっきょく市ヶ谷で降りました。

電車のなかでは、書いてもらった文章を何回も読んで練習しました。最初の家は、コーヒー・ショップかレストランのようなところだったので、「ここからはじめないで、もう少し行きましょう」といって、二番めの家からはじめることにしました。

それはそれは心臓がどきどきでした。その家は普通の家でした。玄関を開けると、お嬢さんが出てきました。「こんにちは」といってから、文章を言いはじめました。本を出すと、お嬢さんは見てから、お母さんを呼び、本を買ってくださいました。とてもうれしく思いました。まず第一に、私たちの言ったことが通じたことが、うれしく、そして、買ってくださったことも。うれしくて、感謝して、次の家に行きました。二番めの家でも買ってくださいました。三番めも、四番めも……。

一つの家は、小さな会社のようで、縫いものをしている女の人が四、五人いました。全員が買ったわけではありませんが、何人かが買ってくれました。試めしにやってみただけなので、そんなにたくさんは持っていなかったのですが、二時間で本がなくなりました。私たちはうれしくてたまりませんでした、駅に戻ったときに家に電話をしました。シスターテクラ・メルロも、とても喜ばれました。

それからは安心して、シスターテクラ・メルロの出発前には、もうプロパガンダには行きませんでした。三日ぐらいしか残っていない滞在中は、彼女と一緒に過ごしたかったからです。

プロパガンダのことについては、シスターテクラ・メルロも安心して、出発なさいました。こうして私たちは、プロパガンダの使徒職をはじめることになりました。シスター・ロレンツィーナは、恥ずかしがっていましたが、いざ翌日出かけると、おもしろくなってしまっていつまでも帰ってきませんでした。あまり遅いので、私は心配して、帰ってきた時に彼女たちをしかりました。このようにして私たちは、その後ずっとプロパガンダの使徒職を続けました。

シスターテクラ・メルロが出発なさるとき、私たち四人も共に四谷の聖パウロ会まで行き、アルベリオーネ神父の祝福をいただきました。シスターテクラ・メルロは、私たちを残して出発するのが心残りで泣かれました。彼女はしっかりした強い人でしたが、とても心のやさしい方でしたから。

シスターテクラ・メルロが来られた時に、彼女は私たちから日本についていろいろ説明を聞かれました。マルチェリーノ神父が助けてくれましたが、私たちは若かったので、シスターテクラ・メルロが日本に来られた時、私は彼女にたくさんのことを尋ね、教えてくれました。

私は、シスターテクラ・メルロに小さいことでも、いつも手紙を書いていました。何でも下手でしたし、経験はありませんでしたから。そして、彼女はいつも返事をくださいました。幼くして入会した私にとってシスターテクラ・メルロは母親のようで、とても親しく感じていました。

シスターテクラ・メルロはいろいろのことを指導してくれました。霊的なことだけではなく、いろいろなことについて。

シスターテクラ・メルロが言われたことで、よく覚えていることがあります。私はときどき困難を感じていましたが、「Fidati di Dio. (神様に信頼してください)」と三回言われたことがありました。シスターテクラ・メルロは、ほんとうに神様に信頼しておられました。信頼だけでなく、任せておられました。神にゆだねる、これは心の良さと並んで、彼女の特徴でした。ほんとうに神様にゆだねておられたから、神様からいつも助けていただいていたのだ、と思います。

それで、シスターテクラ・メルロは、私に、イエス様にゆだねてください、ゆだねてください、ゆだねてください、と言われました。必ず神様から助けていただけるから……と。

◆6--4 創立者アルベリオーネ神父の第一回目の来日


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