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江戸の殉教者 ペトロ・カスイ岐部


ペトロ・カスイ岐部
ペトロ・カスイ岐部

「世界を歩いた神父」ペトロ・カスイ岐部神父は、1587(天正15)年、豊後国(現在の大分県)の浦辺に生まれました。両親がキリスト教徒であったため、幼くして洗礼を受け、13歳で有馬のセミナリオに入りました。

 司祭への道を志し、このころから、「カスイ」と号を名乗るようになりました。「カスイ」の意味については「活水」などの説がありますが、正確にはわかっていません。

 セミナリオを卒業し、イエズス会入会を希望しましたが、その希望はかないませんでした。その後、同宿として、筑前(現在の福岡県)の甘木の秋月などで、司祭を助けて働きました。

 1614(慶長19)年、キリシタン追放令によって、宣教師たちと共にマカオへ追放されました。ペトロ・カスイ岐部は司祭になる夢を胸にマカオに渡りました。彼は、マカオのコレジオでラテン語と神学を学びましたが、マカオに日本人たちはうまく溶け込めず、長上にうとまれ勉学を中止し、日本人神学生たちは東南アジア各地に散ることになりました。

 ペトロ・カスイ岐部も、インドに向かいました。しかし、マカオの長上は、日本人についての警告を各地に送っていたため、彼は、インドからパキスタン、イラン、イラク、パレスティナを経て、徒歩でローマへと向かいました。日本ではじめて聖地に足を踏み入れた人です。
 出発から3年も経った1620年のことでした。

 すでにマカオからの手紙が届いていましたが、ローマでは、ペトロ・カスイ岐部を受け入れました。1620年11月15日、ラテラノ教会において33歳で司祭叙階を受け、イエズス会への入会を認められました。
 彼は、さらにローマのイエズス会修練院で2年間の養成を受け、ローマ学院(グレゴリオ大学)で神学を学びました。祖国日本での宣教を目指し、11月21日、リスボンで初誓願を宣立しました。

 1623(元和9)年、リスボンを出航して、インドに向かいました。はるか喜望峰を回り、翌年ゴアに着き、マカオに入りました。
 しかし、マカオが日本との通商を断絶していたためここを去り、マラッカ、タイ、そしてフィリピンへと渡りました。

 マニラのイエズス会の支援を受け、ルパング島から日本に向けて出航しました。ペトロ・カスイ岐部神父の船は、鹿児島沖で難破し、漁船によって助けられ、日本に潜入することができました。16年ぶりの祖国でした。

 そのころの日本は、キリシタン弾圧が強化され、踏絵が行われていました。ペトロ・カスイ岐部神父は、長崎に赴きますが、当時の管区長フェイレラ神父(沢野忠庵)は転び、長崎を離れ東北へ移っていました。

ペトロ・カスイ岐部が捕らえられ処刑された伝馬町牢獄跡
ペトロ・カスイ岐部が捕らえられ
処刑された伝馬町牢獄跡

ペトロ・カスイ岐部神父は、激しい迫害の中を逃れながら、東北へ向かました。
 しかし、1639(寛永16)年3月、同宿長三郎が賞金目当てにペトロ・カスイ岐部神父の宿主を訴えたため、彼は捕らえられ、江戸に護送されました。棄教していたフェイレラ神父(沢野忠庵)と出会った、ペトロ・カスイ岐部神父は、信仰に戻るよう薦めたと言われています。

 ペトロ・カスイ岐部神父と共に捕らえられていた、ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父、マルチノ式見市左衛門神父は、将軍家光とキリシタン担当の大目付・井上筑後守政重から3回にわたって詮議されました。ペトロ・カスイ岐部神父はこの詮議において、信仰を証ししました。

 彼は、激しい拷問にもゆらぐことなく、共に穴吊りにされた人たちを励まし続けました。 役人たちは、日本で3年くらいしか宣教活動を行っていないペトロ・カスイ岐部神父を知らないので、他の宣教師のように、転ばせることを重視しませんでした。かえって彼を早く殺そうと、腹の上に燃えさしを置いたため、火がついて内臓が破裂して亡くなったと思われます。
 このことは、ちょうど江戸に来ていたオランダ人の通詞・貞方利右門が、平戸に帰って報告したため、オランダ商館長日誌に書き残されています。

 日本を愛し、信仰のために生涯をささげたペトロ・カスイ岐部神父は、享年52歳でした。



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