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キリシタンゆかりの地をたずねて
生月の殉教者 ガスパル西玄可とその家族
黒瀬の辻の殉教碑
生月島は長崎県の北西部に位置し、平戸島の北の沖合に浮かぶ海岸線の出入りの少ない南北に長い島で、自然の豊かな美しい島です。
生月では16世紀に領主の籠手田安経(こてだ やすつね)と一部勘解由(いちぶ かげゆ)兄弟がキリスト教に入信したため、島民もほとんどキリシタンとなりました。籠手田氏と一部氏は、平戸領主松浦氏の支族で、松浦氏に従属していました。
籠手田氏は、実際には平戸に住み、生月には管理者を置いていました。これが生月の西家でした。
ガスパル西玄可は、1556(弘治2)年、平戸の生月島に生まれました。 父はドン・アントニオ籠手田左衛門の家臣で、島の総奉行を務めていました。ガスパルは、2歳の時父とともにガスパル・ヴィレラ神父から受洗しました。
ガスパルは成人して、父の後を継ぎ総奉行を務め、若き未亡人ウルスラと結婚し、連れ子ガスパル・トイを息子とし育てました。ガスパル西はウルスラとの間に4人の子をもうけました。長男は西家を継いだヨハネ又市、次男はトマス六左衛門、三男はミカエル加左衛門、そして1人娘マリアでした。
1581(天正9)年、平戸藩主・松浦氏の信任が厚く、生月の教会の支柱ともなってきた籠手田左衛門が亡くなりました。さらに、1587(天正15)年には、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布したため、各地の教会が閉鎖されました。生月においても教会への迫害がはじまりました。
1599(慶長4)年、ジェロニモ籠手田とそのいとこバルタザル一部は、信仰を守るために600人の家臣を連れて領地を捨て、長崎に逃れました。この時、ガスパル西は管理職を解かれたにもかかわらず島を離れず、妻ウルスラとともに生月の信者たちの世話役となりました。
黒瀬の辻から見える中江ノ島
ガスパル・トイは有馬のセミナリオに入り、その後イエズス会に入会しました。トマスも有馬のセミナリオに学び、マニラでドミニコ会の司祭として叙階しました。三男のミカエルは家族と共に広島の教会に仕えていました。娘マリアは舘浦の奉行近藤喜三(こんどう きさん)の息子と結婚していました。
日増しにキリスト教への態度を硬化させる領主松浦鎮信(まつうら しげのぶ)を気遣い、近藤喜三はマリアに信仰を棄てさせようと責めたてました。マリアは信仰を守るために愛する夫と離れて実家に戻りました。近藤喜三は、空盛上人(くうじょうしょうにん)と名乗る平戸の僧侶と手を組みガスパル西を領主に訴え出ました。
鎮信は、キリシタンについて調査し、命令に背いている者を処刑するように命じました。
平戸から来た役人に対して、ガスパルは信仰を認めたため捕らえられ、連行されました。ヨハネ又市も捕らえられ、縛られてまま家に置かれました。ウルスラは女だということで捕らえず、見張りがつけられました。
翌日、3人の死刑の宣告が平戸から届きました。
ガスパルの刑の執行は、親友であった山田の奉行井上右馬允(いのうえ うまのじょう)に任されました。ガスパルは、キリストと同じようにはりつけを願いましたが、右馬允が拒否しため、1563(永禄6)年にコスメ・デ・トーレス神父によって大きな十字架が建てられたという黒瀬の辻で処刑されることを、願いました。
1609(慶長14)年11月14日、ガスパル西玄可は、黒瀬の辻で右馬允の手で斬首されました。同じころ、少し離れた所でウルスラとヨハネ又一も斬首され、殉教を遂げました。
ガスパルとウルスラは享年54歳、ヨハネ又市は享年24歳でした。
1634(寛永11)年、トマス西神父は長崎で殉教し、その同じ年には広島に住んでいたミカエル加左衛門も兄トマスをかくまったかどにより、その妻と幼児と共に処刑されました。トマス西神父は、1987(昭和62)年10月18日、ヨハネ・パウロ2世によって、他のドミニコ会司祭、修道士、修道女、彼らを助けた信徒たちと共に「聖トマス西と15殉教者」として列聖されました。
徳川幕府の禁教令下、生月は厳しい弾圧、処刑が行われ、一転して殉教の島となりました。それでも信者たちはその信仰を守り、「潜伏きりしたん」や「隠れきりしたん」となって、各種の行事や口伝オラショ、納戸神など当時の信仰を今に伝えています。
ガスパルたちの墓は、迫害の時代も生月のキリシタンたちによって大切に守り続けられました。そして、1993(平成5)年、彼の墓の傍ら、黒瀬の辻に、再び大きな十字架が建てられ、クルスの丘公園として整備されました。