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萩の殉教者 メルキオール熊谷元直


熊谷元直の碑
熊谷元直の碑

熊谷元直(くまがい もとなお)は、1555年(弘治元)に生まれました。熊谷氏は、桓武天皇から出た平氏の血を引く名家で、源平合戦で源氏方で活躍した武将・熊谷直実の末裔でした。
 三入(みいり)の高松城の城主であり、毛利家の重臣の一人でした。

 元直は、1580(天正8)年の秀吉との戦いでは毛利勢に加わり、秀吉と和を結んだ後は四国征伐にも参加しました。その後。九州の島津征伐に参加し、その時に熱心なキリシタンであった黒田孝高(くろだ よしたか)と出会い、1587(天正15)年の復活祭に中津でメルキオールという霊名で洗礼を受けました。しかし、戦場であったため、きちんとしたキリスト教についての教えを学ぶことができませんでした。

 1596(文禄5)年、秀吉は明の使者を迎えるために伏見に豪華な屋敷を建てるために、淀川に堤をつくるように毛利氏と小早川氏に命じました。
 元直は工事に従事するために大阪に滞在し、ここで二人の熱心なキリシタン武士と出会い、信仰を生涯守りとおすことを決心することができたとの手紙を神父に書き送りました。

 関ヶ原の戦いにおいて、豊臣側について、戦わずして大阪城を明け渡した毛利輝元には、周防と長門のみが残され、広島から萩に移り築城することになりました。元直は輝元に従い、ここでキリシタンとしての生活を送りました。

 しかし、徳川家康の度重なる圧力によって、輝元はキリシタン弾圧をはじめました。
 1602年には、山口から宣教師が追放され、教会は閉鎖されました。元直には、信仰を捨てるようにとの使者が何度も遣わされました。しかし、元直は命を捨てても、永遠の救いの唯一の道であるキリストの教えを捨てることはできないと答えました。

 輝元は、「五郎太石事件」と言われる、萩城の石垣築城に際の石垣の間に詰める五郎太石が盗まれるいう諍いを利用して、キリシタンであった元直と天野元信を処刑することを命じました。

 1605年7月1日、山口にあった元直の屋敷が没収され、翌日の早朝、元直のもとに罪状書と切腹の命令を使者が持ってきました。キリシタンである彼が切腹を拒み、奥の部屋にいる時に武士たちが乱入し、彼の首をはねたました。享年50歳でした。
 この時、彼の妻子そして孫など、少なくとも11名が処刑されました。



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