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新世紀ルーツへの巡礼

目次

使徒職の発展

5) 映画による宣教への挑戦

アルベリオーネ神父は、修道会のはじめから「各家庭にカトリック紙を」と日刊紙を提唱し続けてきました。教区会報、雑誌、書籍は、著者がパウロ会員かどうかは別として、読みやすいようにと心しました。また、いろいろな形で出版された聖書、典礼関係の刊行物、カテケジスの本、通信による宗教教養コースなどは人びとに喜ばれました。

「精神は伝統的、形は新しく」、これが、神から受けた使命を実現しようとしたアルベリオーネ神父の活動原理であり、彼の息子、娘たちはこれを受けてこの世界に飛びこみ、そこに使徒職の神髄を吹きこんだのでした。これを生きるためには、精神の柔軟さと勇気が求められます。

伝統的な精神とは、福音の精神、聖パウロの精神、教会が持っているよりよい伝統的な精神のことであり、新しい形とは、マス(大衆)への影響と人間の相互関係という面で新しい世紀に人類がなし遂げた進歩が提供している出版、映画、ラジオ、テレビ、つまり、社会的コミュニケーションのメディアのことです。

“映画”というメディアが登場し、それが人びとに影響を及ぼしているのを知るにつれ、アルベリオーネ神父は、“映画”メディアをみ言葉の普及のための宣教のメディアとして……と、考えはじめます。彼は、1920年代にすでにキエザ神父と映画について長い話を交わしています。「映画を人びとの救いと社会の善のために、使徒職のきわめて効果的なこの手段を使わなければならない」と。

教皇ピオ11世は、映画が少年少女や児童に与える悪影響のために心を痛めていました。  1936年、教皇は「“VIGILANTI CURA”ヴィジランティ クーラ(目ざめて警戒しなさい)」という回勅を出し、倫理観を高めるための映画教育の使命のために、倫理的でない映画に対抗し、よい映画を作るようにと勧めています。

これを機に、聖パウロ会の映画の部門の使徒職は一気に広がっていきました。

映写機と創立者

アルベリオーネ神父は、第二次大戦がはじまる前に、聖パウロ会司祭であるエミリオ・コルデロ神父を映画の使徒職のために派遣しました。

1939 年には、のちのサンパウロ・フィルムの前身であるローマ・フィルム制作社“REF(ロマーナ・エディトゥリーチェ・フィルム)”が誕生しました。アルベリオーネ神父はローマの使徒聖パウロの墓の上で一時間の聖体礼拝を行って、この発足を祝いました。“REF”を作った目的は一般の映画館に堂々と入っていける映画を制作することでした。多くの困難があり、また、反対も少なくなかったのですが、まず一つの作品『アブーナ・メシアス』を世に送りだすことができました。エチオピアのガッラで活躍した使徒、カプチン会宣教師グリエルモ・マッサイアを主人公としたもので、これにはたくさんの人びととともにカプチン会士も貢献してくれました。このフィルムは、翌年のヴェニス映画祭で受賞しました。

映画製作にはたくさんの資金が必要で、映画の通常の普及ルートにのるのも難しく、聖パウロ修道会は赤字をかかえこむことになり、方向性を変更することを余儀なくされました。つまり、映画製作よりも、すでにでき上がっている善い映画を購入し、これを16ミリのフィルムに変換し各教会やカトリック教育施設などに提供するということでした。

コルデロ神父は、大きな映画会社のリストを見、その中から良いものを選択し買い取り、映画を紹介したパンフレットを教会に送るという手段をとりました。こうして宣伝された映画は、貸しフィルムとして教会や他の施設から、注文を受けました。これが増えてくると、“サン・パウロ・フィルム”という代理店を各地に開いていきました。

預言者アンナの服装をつけたシスターテクラ
  預言者アンナの服装をつけたシスターテクラ

預言者アンナ役のシスターテクラと
    預言者アンナ役のシスターテクラと

預言者アンナの衣装をつけたシスターテクラ・メルロ

一方、1950年8月7日には『マーテル・デイ』(「神の母」の意)と題した映画制作を行い、アルベリオーネも初めての撮影に立ち会っています。
 この映画の中で、シスターテクラ・メルロは、預言者アンナの役柄で出演しています。聖パウロ修道会、聖パウロ女子修道会の合同で製作されたものです。

1951年から54年までは、カトリック要理を解説した短編映画が、1953年にはキリストの生涯を描いた映画「人の子」が製作されました。

1962年には、アルベリオーネ神父の勧めと励ましに従い、聖書のテーマで教理関係の短編映画シリーズをカラーで制作しはじめています。また、1963年に、アルベリオーネ神父は、「旧約の太租たち」という映画試写にも立ち会っています。

1965年、アルベリオーネ神父は、ローマ・チネチタで行った聖書映画「サウルとダヴィデ」の撮影に立ち会っています。1965年には、新しい映画関係の機械を祝別し、無原罪の聖母のご保護にこれを託しています。

映画を使徒職の手段として用いることについて外部からも、内部からもいろいろの声がありました。それらに対して、アルベリオーネ神父は次のように言っています。

◆ 映画は別の使徒職ではありません。聖師イエス・キリストを知らせるという同一の使徒職です。使う手段が違うだけです。
 たとえば、一つのニュースを伝えるのに、肉声でいうこともできます。手紙を書くことも、新聞紙上に記事を書くことも、電報を打つことも、電話をかけることも、ラジオで話すことも、その他いろいろの方法があります。場合によって手段が変わるということです。
 しかし、目的は同じ、つまり、そのニュースを知らせるということです。
それならば、どういうことになるのでしょうか。本か、映画か、雑誌か、それとも……いずれにせよ、そこに燃える熱意は同じ、感じる責任も同じ、工夫を凝らす聖なる心も同じです。

◆ 出版・映画・ラジオ・テレビは、個人の生活、家庭生活、社会生活、知的生活、道徳生活、芸術面、経済面、政治面、国際面のすべてにかかわります。
 これら思想伝達の四大メディアのどれもが、高い山の上にある大量の水にたとえられるといわれていますが、よくいい尽くしています。
 その水が巨大なダムに蓄えられ、一部は田畑を潤すために引かれ、一部は発電機にあてられるというふうに、賢く配分されるならば、田園地区や都市に大きな繁栄と豊かさをもたらすばかりでなく、一地方とか、もしかすると、国全体までも豊かにすることができます。
 ところが、逆に、もし、突然に洪水になったり、ダム決壊で無制限に流れ出したりしたならば、その下流の地方一帯の破滅になります。これと同じことが、出版・映画・ラジオ・テレビについていえます。そのどれ一つをとっても、考えられないほどの善益を与えますが、はかりしれないほどの害を与えることもできます。  マスの上に働きかける力は巨大です。人間存在の四大柱といわれる、家庭、社会、宗教、人間道徳を、激しく揺さぶることもできれば、たくましく成長させることもできます。

◆ 映画の使徒職全体を、いつもミサのカリスのなかに入れています。
 映画からどれほどのよい結果とよい実が得られるかは、とても知り尽くすことはできないと思いますが、少しは知っているつもりです。
 そして、いつも願っているのは、ここに献身する人びとが豊かな徳をもち、どんなときにも神の光に導かれるように、ということです。
 「あらゆる美の女王であるマリア、あなたのやさしい御手を私の頭の上に置き、知性と心と感覚を守ってください。」
 マリアが映画の芸術面を導き、私たちがこの使徒職を果たすことができ、実現できるはずのすべての善を果たせるよう導いてくださいますように。

◆ 映画のために語られるあらゆる言葉、なされるあらゆる働き、犠牲、祈りを祝福します。私は毎朝ミサのなかでイエスに映画のことを申しあげています。出版同様に司牧者の使命遂行を助けるように、とくに、青少年のためのフィルムの改善と小教区での映画の発展の必要を考えるからです。

◆2--13 使徒職の発展


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