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新世紀ルーツへの巡礼
3--1 聖パウロ女子修道会(聖パウロの娘たち)の創立
2) ティモテオ・ジャッカルド神父が語った聖パウロ女子修道会の起源
ジャッカルド神学生
聖パウロ女子修道会の起源については、初代総長シスター テクラ・メルロが書いたものと、ジャッカルド神父の書いた証言などがあります。
2つの手記のひとつは1923年、「良書出版協力者会」誌のために、当時その編集担当者だったジャッカルド神父に資料を提供するためにシスター テクラ・メルロが書いたものです。「良書出版協力者会」は、シスター テクラ・メルロが書いたものをさらに推敲し、内容を豊かにしました。その結果、新しいひとつの物語が生まれたほどです。
「良書出版協力者会」誌は、シスター テクラ・メルロの書いたものを、1923年6月21日から1925年4月25日まで、22回にわたって連載しています。終わりのころには、細かい具体的なことが加えられ、内容を豊かなものにしています。1923年に、この雑誌の名前がかわり、「聖パウロ」と呼ばれるようになりました。連載記事には毎回、「小さな歴史」という見出しがついています。
小さな歴史:ティモテオ・ジャッカルド神父が語った起源
UCBS(良書出版協力者会)機関誌から
聖パウロ女子修道会(Le Figlie di San Paolo(=聖パウロの娘たちの意味)の起源は、聖パウロ会よりもっと慎ましく、隠れたものです。彼女たちも、名前がなく、家もなく、だれ一人気づくこともなく、ひっそりとはじまりました。からし種は、小さな小さな粒です。
少年印刷学校開設から、1年後の1915年6月15日に、聖パウロ女子修道会ははじまりました。そのころはただ、「女性の仕事場」と呼ばれていました。
ガゼッタ誌に掲載された「女性の仕事場」の広告
シニョール・テオロゴ(神学の先生という意味で、アルベリオーネ神父のこと)の考えははっきりしていて、歩む道は確実なものでした。しかし、事実を外から見ていた人たちには、向かっている理想を、はっきりとつかむことはできなかったでしょう。聖パウロ女子修道会は、生涯を良い出版のためにささげることを目的としてたてられました。それにもかかわらず、そのころまだ印刷所をもっていませんでした。軍関係の卸業者のために兵隊の下着を縫うことからはじめました。この団体の創立をみたとき、狭い世間は、さまざまな判断を下し、いろいろとうわさをしていました。…… この仕事場は、少年たちが前に住んでいたところのケラスコ広場にあるデジャコミーニの家につくられました。
軍の仕事をするために、1日そこで働くことのできる何人かの少女を受け入れました。彼女たちは、果たした仕事によって報酬を受けていました。
聖パウロ女子修道会を準備する最初のメンバーは、3人の若い娘たちでした。彼女たちは一緒に仕事をしたり、ミサにあずかったりしていましたが、共同生活はしていませんでした。まだ住む家がなかったからです。ですから、毎朝、仕事場にやってきて、夕方になると自分たちの家に帰っていました。3人ともみなアルバの人でした。仕事場では仕事を監督したり、教えたりしていました。
シニョリーナ・ボッフィ
1人はシニョリーナ・ボッフィで、すでに世の中でいろいろな経験をつんでいて、また多くの苦しみをへてきた人です。…… 彼女は聖パウロ女子修道会が生まれたときからいた人で、会には7年間とどまりました。
他の2人は、今はじめようとしている家のメンバーになりたいとの意向と望みをもっていました。しかしその1人は入らず、もう1人は入って8カ月間その家で生活しました。……ともかく、今生まれようとしている団体が、自分たちではわかることのできなかったことを、主が話し、わからせてくださいました。
月の終わりごろ、もう1人の娘が、良書出版の修道女になりたいという意向をもって最初の娘たちの仲間に加わりました。これがシニョリーナ・メルロ・テレザ(シスター テクラ・メルロ)で、聖パウロ女子修道会の修道女になってからは、テクラと呼ばれた人です。そして、この家族の年長者たち、少女たち、すべての人の中で第一の人となりました。
◆3--1 聖パウロ女子修道会(聖パウロの娘たち)の創立