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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み

6) パウロの娘、日本へ(2)

シスターイレネ・コンティ
シスターイレネ・コンティ

9歳で入会し、日本創立の責任をおったシスターイレネ・コンティのことを、彼女へのインタビューでご紹介しましょう。


§       §       §       §

1922年10月のある日のことです。北イタリアのスーザで、9歳の女の子が父親に手を引かれて歩いていました。その女の子の名前がイダ・コンティ(修道名はイレネ)でした。母親が亡くなったため、父親は、パウロの娘たちのところは、学校か幼稚園をもっている施設と思いこみ、そこにその子を預けようと考えていたのでした。

彼女は、このスーザへの道が、自分をやがてとても遠いところ、日本へとつながっていくとは夢にも考えていませんでした。

シスターイレネ・コンティとのインタビューの一部から、当時を振り返ることにいたしましょう。

聞き手:

シスター・イレネは、9歳のときシスターテクラにお会いになったのですね。

シスターイレネ・コンティ:

私は9歳で修道会に入会しました。
 私の入会には、一つの間違いがありました。私の母は、私が9歳のときに亡くなりました。妹は、母の死ぬ2時間まえに生まれました(この妹さんも後にパウロの娘となる)。

私たちの兄弟は7人で、5人の兄、私と妹でした。私たちは田舎に生活していましたので、父は私の教育について心配だったようです。5人の兄たちはすでに働いていて、家にはいませんでした。そこで、父は、教区の主任司祭をしていた自分の弟に、私のために寄宿学校を探してくれるように依頼しました。その教区の村の名は、「セッテ・ソレッレ(七人の姉妹)」でした。

叔父は、聖パウロ修道会の召命パンフレットをもらっていたので、父にそこに行くように勧めました。アルバではなくスーザに支部がありましたので、父はスーザに手紙を書きました。スーザには、シスターテクラと姉妹たちがいました。

どこでどう間違ったか、わかりません。叔父は私について9歳と書いたのは確かですが、シスターテクラは19歳だと思ってしまいした。
 つまり、「セッテ・ソレッレ」の村ではなく、7人姉妹の家庭と思ったのです。7人娘のひとり、19歳の娘が入会すると思って、「はい、お待ちしております」とお返事をくださいました。そして、下着類を、何は20枚、何は10何枚……など、とてもたくさんの品物の数が知らされてきました。

父は、「こんなにたくさん……? これからどんどん大きくなっていくのに?」といいましたが、「まあ、いい。十分に準備しよう。あとでまた別のものが必要になったら送ろう」といって、準備しました。

父は、スーザまで私を連れて行ってくれました。スーザに着いたとき、道でシスターテクラに会いました。

当時は、修道服を着ていませんでした。着衣(修道服を身に付けること)するようになったのは1929年で、父が私をスーザに連れて行ったのは1922年でしたから。
 フィリエ・ディ・サン・パウロ(パウロの娘)の家はどこかと父が尋ねた相手は、ちょうどシスターテクラたちでしたから、彼女たちは「私たちです」と答えました。  父は、「娘を連れてきました」と言いました。シスターテクラは私を見て、「あなたに変わったのですね、19歳のお嬢さんではなく。いちばん小さいお嬢さんでしょう?」と言われました。

それを聞いた父は驚き、「私には女の子はこの子と生まれたばかりの赤ん坊だけで、19歳の娘はいません」と答えました。

シスターテクラは、「そうですか」といって、家に案内してくれました。

父はシスターテクラに、「この子の母親が死に、女の子はこの子ひとりなので、教育のために心配だ」と話しました。

シスターテクラは、とてもいい心の方ですから、「いいでしょう」と言われましたが、当時、入会許可はすべてはアルベリオーネ神父が出すので、彼に尋ねることを約束してくれました。アルベリオーネ神父は、1カ月ぐらいたったらスーザに来られるので、手紙を書くよりも、子どもを見たほうが、もっとはっきり判断できると考え、シスターテクラは待つことにしました。

そのころ、私の兄は兵隊でトリノ付近にいましたので、父は「もし、この子を受け入れることができなければ、息子が迎えにきて、家に連れて帰ります」と言って、帰って行きました。

1 カ月か1カ月半たって、アルベリオーネ神父が来られ、私を修道会に受け入れてくれました。はじめは父がなつかしくて、私はずいぶん泣きました。スーザにきたときから、シスターテクラは、私にとって母親代わりとなり、必要なものがないかとスーツケースの中を見てくれたり、ほんとうによくしてくれました。

シスターテクラは、たびたび私に、「あなたのお母様は天国から守ってくださっていますよ」と言われました。

聞き手:

日本に来られてから、シスターテクラがいろいろ勧めなどをくださったと思いますが、そのときのシスターテクラとの関係はどうでしたか。

シスターイレネ・コンティ:

シスターテクラが来られたときに、私たちから日本についていろいろ説明を聞かれました。マルチェリーノ神父が助けてくれましたが、私たちは若かったので、シスターテクラが日本に来られたとき、たくさんのことを尋ね、教えてもらいました。

……私は、何でも下手でしたし、経験がありませんでしたから、シスターテクラに小さいことでも、いつも手紙を書いていました。そして、シスターテクラはいつも返事をくれました。小さいときから、私のお母さんでしたから、とても親しく感じていました。

シスターテクラが言われたことで、よく覚えていることがあります。私はときどき困難を感じていましたが「Fidati di Dio. 神様に信頼してください」と3回言われたことがありました。

シスターテクラは、ほんとうに神様に信頼していました。信頼だけでなく、任せておられました。神にゆだねる、これは心のよさと並んで、彼女の特徴でした。ほんとうに神様にゆだねておられましたので、神からいつも助けていただいていたのだ、と思います。

シスターテクラは、私に、イエス様にゆだねてください、ゆだねてください、ゆだねてください、と言われました。必ず神様から助けていただけるから……と。

◆6--2 第ニ次世界大戦終了後の歩み


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