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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--3 旅、そして旅

6) ついに見ることのできなかった中国

飛行場で

アルベリオーネ神父は、この東洋への旅行で、中国に足を踏み入れることは許されませんでした。ちょうどその時期に、「鉄のカーテン」のこちら側で止められてしまったからです。

1930年代に行われた聖パウロ修道会の最初の外国支部創設の歴史には、中国に向けて出発した2人の若いパウロ会士の出発もありました。1934年11月、中国に向かったこの船は、日本に最初の2名のパウロ会士を運んだ船でもありました。

その時から、18年の困難をきわめる歩みがはじまったのです。中国での宣教の大きな実りが予見されていましたが、南京にいた少人数の聖パウロ修道会の兄弟たちに対して毛沢東軍は、国外追放という通告をくだしました。宣教者たちは、この歴史は、それが単なる中断であって結末ではないと言います。そして、この歴史には、実に記念すべき勇気、寛大さ、粘り強さ、体験の数々がありました。

1949 年のはじめの中国の事情は、毛沢東の率いる共産党軍の勝利で、内戦が急速に終わろうとしていました。蒋介石の国軍が撃退され、1月には「共産勢力」が北京を占領することになります。蒋介石が治めていたのは南京でしたが、国軍はこれを守りきることができず、4月には毛沢東軍によりここも占拠されました。

10月には北京で共産政権をもって中華人民共和国の発足宣言が行われ、急速に外国人宣教師が遠ざけられ、中国の教会は国家への従属を強要されました。

このような事情の中、アルベリオーネ神父はぜひ中国に行きたいと思っていた旅程の目的地の一つ、つまり南京には行けなくなりました。1938年、日中戦争後再び同じところに戻って行ったベルティーノ神父、カナヴェロ神父が再建した拠点を見たかったのですが、彼の計画変更は余儀なくされました。

アルベリオーネ神父はこう書いています。

いわゆる鉄のカーテンといわれるものが、突然に動いてきて旅行も電話もラジオも、南京とのすべての交流が絶たれてしまった。
急きょローマ出発を早めて直行しようとしたが、間に合わなかった。
いま、無念な思いで、こんなに近くまで来ていながら、支那海を越えて祝福を送るだけで我慢するよりほかない。
中国とポーランドのためにもう一度「慈悲深き童貞マリア」の祈りを毎日唱えるか、歌うかを皆に懇願する。

創立者アルベリオーネ神父は、ついに中国には入ることができませんでした。しかし、とベルティーノ神父は言います。「創立者は、私たちのために、いろいろな形で一生懸命にしてくださいました。彼が、私たちに必要なものをできる限り送るように、とフィリピンにいたステファノ神父に強く促している手紙がフィリピンに残されており、私はそれを知ることができました。ステファノの神父の寛大な努力にも、私たちは深く感謝しています」と。

この中国におけるパウロ家族の歴史は、やがて世界にパウロ家族が広がっていく魂と言うことができます。この信仰の精神、寛大さ、犠牲の精神とはどんなものだったのでしょうか。さまざまな出来事を伴う中国での創設について触れずに、東洋での宣教を語ることはできないでしょう。

ベルティーノ神父は、1934年11月7日(イタリア出発の日)から1952年8月14日(中国からの出国)までの18年の間、過酷な、しかし信仰に満ちた英雄的日々を生き抜きました。彼の証言をとおして中国での聖パウロ修道会の修道院創設の歩みを、数回にわたってお伝えたしたいと思います。

続いて、1947年、中国に派遣され、やがて日本へとたどり着いたヴァラルド神父の証言からもご紹介したいと思います。

◆6--3 旅、そして旅


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