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新世紀ルーツへの巡礼

目次

第2バチカン公会議の歩みの中で

4) アルベリオーネ神父 第2バチカン公会議に出席

公会議に出席の修道会代表者たち
公会議に出席の修道会代表者たち

第2バチカン公会議に列席を許されたアルベリオーネ神父は、1962年10月11日から1965年12月8日まで、公会議のいっさいの審議に、忠実に、しかも非常に注意深く参加しました。

彼が到着するときには、修道会の総長たちに指定されていた席の大半はまだ空席で、彼は自席に着くと、ロザリオを唱え、ミサに参加し、討論の間は沈黙して耳を傾け、ときどきメモをとっていました。

「広報機関に関する教令」が発布される

公会議の場
公会議の場

1963年12月4日、ついに彼にとって、またパウロ家族にとって最上の喜びの日が訪れます。その日、福音宣教手段としての社会的コミュニケーション・メディアに関する公会議教令『Inter Mirifica(広報機関に関する教令)』が発布されたのです。

アルベリオーネ神父は、パウロ家族のカリスマを最も確実に認証されたと感じ、深い感動の内にこれを受け取りました。

「広報機関に関する教令」は、半世紀以上も彼が教会の中で実現してきたことが打ち出されているものでした。公会議準備中に教皇が行った膨大な意見調査に、このテーマに関してアルベリオーネ神父は自分の体験からの解答を出していました。彼にとって、それはきわめて重要な教令でした。この文書にこそ、彼の使命への教会の公式な承認があったからです。

この草案は発布されるまでに何回も公会議員たちによって討議、修正、加筆、削除されました。そして広報機関に関する教令が議題に上った時、アルベリオーネ神父は、相変わらず静かに聴きながら参加しました。

この教令で、「これらの(広報)機関が正しく活用されるならば、それは人類にとって強力な奉仕となることを教会は承知している」(N0.2)、それは、「人びとのいこいと教養のために、また神の国を広め堅固にするために、大いに貢献するものだからである」(同N0.2)と書かれています。

また同教令の3条には、「カトリック教会は、すべての人に救いをもたらすために、主キリストによって設立され、福音を宣布する義務を帯びている。したがって、救いの知らせを説くために広報機関を利用すること、人びとにこれらの機関の正しい使用について教えることを、自分の任務の一端と考えている。したがってこれらの機関が、キリスト教的教育と救霊に関するすべての教会活動にとって必要または有益であり、あらゆる種類の広報機関を使用し、また所有することは、教会のもつ当然の権利である」とあります。

アルベリオーネ神父は、この3条と同じ精神を自分が創立した聖パウロ修道会と聖パウロ女子修道会の固有の目的とし、それを会憲の中に明記させていたのです。そして実際には、出版に限らず、映画、放送、レコード、カセットなどの使徒を、福音宣教に使うために力を尽くしていたのです。

「広報機関に関する教令」が署名された翌日、彼はこう書いています。

「出版」の使徒職、私たちの使徒職は、全教会にとって義務として認められ、賞賛され、決定されました。聖座、司教団、修道司祭も教区司祭も、信徒のすべてがそれぞれの立場に応じて、より敏速、より現代的な手段、出版・ラジオ・映画・レコード・テレビなどを使って宣教しなければなりません。公会議をこの結論に導いた聖霊は賛美されますように。すべての人が、これほどまでも荘厳に発布された命令に従いますように。
私たちの出版、映画、ラジオ、TVなどの使徒職は、承認され、称賛され、全教会の義務であると定められました。今までたくさんの教皇文書の中でこれについて語られてきました。しかし、今度は、第2バチカン公会議の中で討議され、明確化され、定義されたのです。 全教会の代表者と、教皇臨席のもとに承認され、発布され、決定されたのです。
パウロ的働きは、話した言葉による説教に並んで、教会と世界の前で高い評価をもった使徒職であると宣言されました。

ある司教は、「実にアルベリオーネ神父が生きられたことは第2バチカン公会議の精神を先取りするもの、教会が教令を発布した時、すでに教会の中でこれが生きられ、体験されていたことは大きな力です」と言っています。

シスターイグナチア・バッラ(副総長)はその時のことを回想し、こう述べています。

創立者は、教会のことにはとても敏感でした。第2バチカン公会議で『広報機関に関する教令』が発布され、教会が福音宣教にそれを活用することを公に宣言したときの喜びは、ほんとうに深い大きなものでした。
シスターアスンタ・バッシを呼び、「あなた方パウロの娘は、主があなた方にくださった恵みの大きさを自覚していますか。あなた方の使徒職は第2バチカン公会議によって認められたのですよ。なんと、公会議が認めたのですよ」といわれました。
それはそれはたいへんな喜び方でした。この喜びを他の人たちに分か合おうとしておられました。……彼はこの出来事のなかに、神が人間に与えられた能力に目をとめて、朝の黙想の材料にして説教なさいました。

アルベリオーネ神父はこう語っています。

いまや何の疑いも抱く必要はありません。教会が証明しました。
私はあなたたちによりよいものを与えたのです。もし、何かもっといいものがほかにあれば、いますぐにそれを提供するにちがいありません。でも、もう何も見当たりません。

会員たちは、公会議の「開かれた姿勢」に深く共鳴していたとはいえ、同時に、使徒職の発展と養成の努力の中にある種の不調和を覚えていたのも事実です。そんなことを敏感に感じられたのでしょう。アルベリオーネ神父は、1962年の静修の時に、次のような説教をしました。

アルベリオーネ神父
アルベリオーネ神父

第2バチカン公会議でいちばん繰り返されてことばは、「司牧的、司牧的」ということばでした。つまり、人びとに到達し、人びとを救い、そのための新しい手段を考えだすということです。
出版・映画・ラジオ・テレビに関して、およそ70回、司教たちは視聴覚技術の全手段をどのように善に活用するかについて話しました。しかし、非常に残念なことに、多くの反対意見が出て一種の失望のようなものが皆の間に起きました。
「たびたびキリスト教の教えをこうした技術的手段を使って宣べ伝えようとして働く人びとが自分自身がだめになるような状況に置かれ、精神を失ってしまう……」という話が出ました。そこで、私は反省しました。
この私たちの会員は、書院や映画普及事務所や種々の活動の中にあって、危険に冒されないための充分な祈りを養い育ててきたでしょうか?
善もあるが、悪もあるのだから、神の恵みによって、危険に立ちいらないようにいつも警戒はしています。
まず最初に私たちの魂を救わなければならないのは確かなことです。人の魂のために働いて、自分の魂を失うことがあってはならないのです!
だいたい、自分の救いを全うせず、つまり自分が聖とならず、人を救うことはできないのですから。
そこで、繰り返し言いますが、私は反省しました。
この使徒職に働く人を救い、悪から守って聖性に導き、この技術手段をもっていっそう善業の実を得ることができるだけの充分な祈りが、会憲に定められているだろいか、ということです。
これは40年前に検討したことでしたが、このとき、また繰り返しました。充分にあります。
会憲に定めていることは、充分なばかりか、豊かにたっぷりと霊的糧を確保しています。ただし、定められた祈りをよく果たすならばですが。

◆9--1 第2バチカン公会議


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