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信徒発見のマリア像
1865年3月17日は、日本カトリック教会にとって特別な日、世界にとっても驚くべき歴史的な日です。
日本のキリスト教の歴史をたどってみると、200年以上にもわたる長い迫害の時代をすごしています。徳川幕府の鎖国政策がとかれ、厳しいキリスト教への迫害が少し穏やかになったときのことです。
1865年の今日、10数名の男女が、建てられてまもない長崎の大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に「わたしたちは皆、あなたと同じ心です。」と、キリスト教の信仰をもっていることを告白しました。この人々はキリスト教への厳しい弾圧を、不屈の信仰をもって耐え忍んできた人々の子孫です。
1854年、アメリカのペリーが日本と条約を結び、続いてオランダ、フランスも日本と条約を取り交わしました。そこで、ジラル神父は、フランス領事について江戸に入り、1862年横浜に教会を建てることができました。その結果を見て、一年後にフェレ神父が長崎に行き、南山手に26聖人に捧げられた「フランス寺」大浦天主堂の建築をはじめました。この天主堂の完成を見たのは、プチジャン神父でした。
プチジャン神父はジラル神父にあてた手紙で浦上の最初の信徒との出会いについてつづっています。
心からお喜びください。私たちは昔のキリシタンの子孫がたくさんいるすぐ近くにいたのです。彼らは、聖い信仰に関する事柄をよく記憶にとどめているように思われます。 ……きのう12時半ごろ、男女子どもを合わせた12名ないし15名の一団が、……天主堂の門に立っていました。天主堂の門は閉まっていましたので、私は急いで開けに行きましたが、私が聖櫃の方に進むにつれて、しだいにこの参観者たちも私について来ました。 ……私は、……ご聖体のみ前にひざまずいて……祈りました。 私がほんの少しだけ祈ったあとでしたが、……40歳ないし50歳くらいの女性が私のすぐそばに来て、胸に手をあてて申しました。 『ここにおります私どもは、みなあなた様と同じ心でございます。』…… 『私たちは、みんな浦上の者でございます。浦上では、ほとんどぜんぶの者が、私たちと同じ心をもっております。』 それから、この同じ人はすぐ私に聞きました。 『サンタ・マリア様のご像はどこ?』…… 私はあなたがフランスから私たちのために持参してくださいました聖母のご像がおいてある祭壇に、彼らを案内しました。…… 『私たちは、御主イエスさまのお祝いを霜月(旧暦)の25日にいたします。この日の真夜中ごろ、御主は馬小屋に生まれ、貧困と苦難のうちに成長されましたが、33歳のとき、私たちの魂の救いのために、十字架上で御死去なさったと聞いております。ただいまは、悲しみの季節です』そして『あなたがたにもこの祝日がありますか』と尋ねました。 『はい、私たちにもあります。今日は悲しみの節の17日目です』と答えました。 彼らはこの悲しみの節ということばで、四旬節のことをいいたいのだということが分かりました。……< 彼らは十字架を愛し、祈りを唱えております。」と。 (女子パウロ会発行 結城了悟著:「日本とバチカン」参照)
「サンタ・マリア様のご像はどこ?」と尋ねられたときのプチジャン神父の驚きはどんなであったことでしょうか。キリスト信徒発見という、すばらしい歴史の瞬間をつくった言葉でした。
教皇ヨハネパウロ2世
この出来事を機会に時の教皇ピオ9世は、1868年、日本の26聖人を聖人の位にあげる列聖を行い、全教会に日本の教会のことを考え、祈るように招いたのでした。
これらのことを思い起こしながら、自分自身が大切にしている霊的な価値、人生の目的について、今日考え、祈るように招かれているのではないでしょうか。
教皇ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問されたとき、教皇の別れの挨拶は自然に祈りになり、「私の祈りは、神の恵みが日本を導く人々の上に、また日本のみなさんとともにゆたかにありますようにと願います。」と結ばれました。
いつくしみ深い神よ、 あなたの恵みに支えられて、 日本のキリシタンはきびしい迫害にもくじけず、 代々にわたって信仰を守り抜きました。 この日、その末裔(まつえい)が長崎で サンタ・マリアの導きによって発見されたことを 喜び祝う私たちも、聖母の祈りに守られて試練にたえ、 力強く信仰の道を歩むことができますように。 集会祈願より
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信徒発見のマリア像
1865年3月17日は、日本カトリック教会にとって特別な日、世界にとっても驚くべき歴史的な日です。
日本のキリスト教の歴史をたどってみると、200年以上にもわたる長い迫害の時代をすごしています。徳川幕府の鎖国政策がとかれ、厳しいキリスト教への迫害が少し穏やかになったときのことです。
1865年の今日、10数名の男女が、建てられてまもない長崎の大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に「わたしたちは皆、あなたと同じ心です。」と、キリスト教の信仰をもっていることを告白しました。この人々はキリスト教への厳しい弾圧を、不屈の信仰をもって耐え忍んできた人々の子孫です。
1854年、アメリカのペリーが日本と条約を結び、続いてオランダ、フランスも日本と条約を取り交わしました。そこで、ジラル神父は、フランス領事について江戸に入り、1862年横浜に教会を建てることができました。その結果を見て、一年後にフェレ神父が長崎に行き、南山手に26聖人に捧げられた「フランス寺」大浦天主堂の建築をはじめました。この天主堂の完成を見たのは、プチジャン神父でした。
プチジャン神父はジラル神父にあてた手紙で浦上の最初の信徒との出会いについてつづっています。
「サンタ・マリア様のご像はどこ?」と尋ねられたときのプチジャン神父の驚きはどんなであったことでしょうか。キリスト信徒発見という、すばらしい歴史の瞬間をつくった言葉でした。
教皇ヨハネパウロ2世
この出来事を機会に時の教皇ピオ9世は、1868年、日本の26聖人を聖人の位にあげる列聖を行い、全教会に日本の教会のことを考え、祈るように招いたのでした。
これらのことを思い起こしながら、自分自身が大切にしている霊的な価値、人生の目的について、今日考え、祈るように招かれているのではないでしょうか。
教皇ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問されたとき、教皇の別れの挨拶は自然に祈りになり、「私の祈りは、神の恵みが日本を導く人々の上に、また日本のみなさんとともにゆたかにありますようにと願います。」と結ばれました。
祈り
いつくしみ深い神よ、
あなたの恵みに支えられて、
日本のキリシタンはきびしい迫害にもくじけず、
代々にわたって信仰を守り抜きました。
この日、その末裔(まつえい)が長崎で
サンタ・マリアの導きによって発見されたことを
喜び祝う私たちも、聖母の祈りに守られて試練にたえ、
力強く信仰の道を歩むことができますように。
集会祈願より