教会カレンダー
A年 師イエス・キリストの祭日
第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 使徒ペトロの手紙2 1章16~19節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~7節
第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
第2朗読 使徒ペトロの手紙2 1章16~19節
わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。
わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。
夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~7節
さて、過越祭の前のことである。
イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。
既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
パウロ家族の創立者、ヤコボ・アルベリオーネ神父は、イエス・キリストを私たちの考えと行動の中心であるお方ととらえています。
アルベリオーネ神父の死後、ロアッタ神父(聖パウロ会)は、彼が弟子たちに残した霊的遺書を探求し、このように書いています。
* * * * * *
聖パウロに徹底して従ったヤコボ・アルベリオーネ神父の考え方は、全面的にキリスト中心でした。多種多様な生活表現のどれを取っても、その力の中心は、使徒パウロがいうつぎの言葉にありました。すなわち、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ 2.20) 。
聖パウロに徹底して従ったヤコボ・アルベリオーネ神父の考え方は、全面的にキリスト中心でした。多種多様な生活表現のどれを取っても、その力の中心は、使徒パウロがいうつぎの言葉にありました。すなわち、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ 2.20) 。
福音を読み、まったき人間をつくる師キリストに魅せられて、この「師」を自分の霊的生活の土台とし、また使徒としての使命の源としたのでした。
「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。」(ヨハネ 13.13)。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ 28.19) 。
20世紀の人類への指針として出されたレオ13世の回勅(1900年11月1日発布、『タメトゥシ・フトゥーラ』)に霊感を受け、ヨハネがいう3つの柱、すなわち「私は道であり、真理であり、生命(いのち)である」(14.6)ということをもって、キリストの秘義と充満とを捕らえることを学んだのでした。
彼は、自分の修道家族の考え・祈り・活動のすべての中心に、福音のこのダイナミックな3つの柱で表されているキリストを据えました。
私たちが生まれたのは、道であり、真理であり、生命(いのち)である師イエスを、人々に伝えるためです。
祈り
光の源である父よ、
時が満ちてあなたは愛する独り子を世に送り、
私たちに語られました。
私たちが忠実な弟子として、道・真理・いのちである御子を
世界に告げ知らせることができますように。
集会祈願より