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教会カレンダー

A年 年間第15主日

第1朗読 イザヤ書 55章10~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節

福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節

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今日の典礼のテーマは、神の言葉です。

イザヤの預言は、自然を描くことをとおして、神の驚くべき救いの約束を告げます。福音書は、有名な種まきのたとえ話です。神の国の言葉を語るイエスの姿を 伝えています。

イザヤ書やパウロの言葉によって、私たちは創造から終末にいたる救いの歴史を展望することができます。

神の国の到来という決定的な現実を前にして、なおかつ神の国は この世には隠された秘義であり、信仰の恵みと密接に結びついています。

今日は、私たちが聞かせていただいたみ言葉を受け入れ、実を結ぶかどうかを問われている日です。

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第1朗読では、第2イザヤ書の結びからとられています。第2イザヤ書(40~55章)は、バビロン捕囚(ほしゅう)にあったイスラエルの民に、神のゆるしと バビロンの囚われからの解放を告げます。

この神の約束は、捕囚の身にあった民には信じられないようなことでした。

神は、ご自分の意志が必ず実現することを示して、民を励まします。

第2イザヤ書の終曲ともいわれる今日の箇所が、神の言葉に対する賛美と 信仰宣言で終わっているのは、注目に値します。また、ヘブライ語の「言葉」には出来事の意味もあるそうです。ですから神の語りかけにはこの要素も含まれています。

人に注がれる自然の恵みの描写は、この神の言葉を聴く者に、深い慰めをもたらします。

今年、水の結晶の写真が多くの人にいやしと慰めを与えて、関心をよんでいますが、今日の答唱詩編にも 天からの水がどれほど多くの恵みをほどこすかについて、美しく描かれています。

人の目にはできないように思えることを、神は自然の姿をとおして語られます。「神のことば」の力に信頼を促す今日の言葉を自らの内に迎え入れ、思いめぐらす日としてはいかがでしょうか。

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第2朗読では、ローマの信徒への手紙の中心ともいうべき8章から読まれます。

今日読まれる朗読の箇所は、救われた人間としてのキリスト者の今のうめき、希望を見事に描いています。

マルティーニ 枢機卿は、その著『人びとと共に歩むマリア』の中で、ローマの信徒への手紙のこの箇所を解説して、「被造物のうめき」、「私たちのうめき」、「聖霊のうめき」の「三つのうめき」について語り、うめきとはなにかについて述べておられます。

うめきとは何でしょうか?
うめきは押し殺された叫び、ある種の苦しみにどう対処していいかわからない、
そんな何かです。
心の中には大声で叫びたい衝動が渦巻いているのですが、
それが何かにせき止められ、叫びにならない音だけがもれる、
それがうめきです。
訴えは激しい叫びですが、その表現はかすかで、
それと認められないのがうめきの特徴です。

そして、聖書が語る二つの重要な必要性について述べます。
  (1) イエスのうめき
イエスはうめいた(マルコ 7.32~34)と、ギリシア語ではなっているそうです。イエスは耳が聞こえない人への奇跡を行うにあたり、霊的な激しい緊張のひとときを経験されました。イエスのうめきには、人間の苦しみへのすさまじい参加があります。
(2) 自由を求める民のあえぎ、苦しい息づかいとしてのうめき(使徒 7.34 参照)。「嘆きを聞いた」と訳されているのは、「うめき」という言葉だそうです。

来週継続して読まれるローマの信徒への手紙から、聖パウロの語るうめきを深めていくことができるでしょう。

それにしても、今日の冒頭にある「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とは、聖パウロの心構えを伝えてくれていると同時に、私たちになんと希望をおこさせてくれる言葉でしょうか。

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今日から3回にわたって、イエスの「天の国」のたとえ話が読まれます。マタイ福音書13章は、イエスが語られたたとえ話が集められており、今日読まれる「種まく人のたとえ」は最初に出てくるものです。

イエスが、なぜたとえ話で語られるのか、たとえ話の解釈も述べられています。

たとえ話に関しては、共観福音史家がそれぞれ書いています。一覧表から、共通点、違い(色を変えたり、アンダーラインを引いたりしながら)をみていくと、それぞれの福音書の特徴が浮かび上がってきます。ぜひ、この機会に読まれることをお勧めいたします。

  <共観たとえ>

「種まく人のたとえ」がよく分かるためには、当時のパレスチナ地方の種まきの方法を知ると役にたちます。

日本で種をまくときには、土地を耕してから種をまきますが、パレスチナ地方では、逆で耕さずにまいたそうです。ですから、どこに種が落ちるかということが生じてくるわけです。

種がどんなにすばらしい生命力をもっていたとしても、まかれた土地のあり方、種の落とされた土地のいかんで、その生育はさまざまでした。ですから、種の生命力をいかすも殺すも土壌にかかっていたのです。
 こう分かると、聖書を理解するには当時の日常生活などを学ぶのは 大切なことです。

天の国のことばを聞く人びとの姿勢への 問いかけの背景に、イエスの力強い働きが感じられます。

イエスの周りにたくさんの人が集まってみ言葉を聞きましたが、そのみ言葉の受け止めかたは様々であったことを福音書は伝えています。抵抗をもって受け止めた人、拒否した人、敵意をもって攻撃した人、そして心を開いて受け止めた人など。

どのような状況であっても、イエスはみことばを述べ伝えることを止めませんでした。語り続けられたのでした。そんな中で、どういう心構えが必要であるかをも たとえで語られました。

道端、石地、いばらの中、そしてよい土地。

私たちの心の姿勢はどのようでしょうか。

だれの中にも、すべての要素があるでしょう。ですから、受けたみことばを育てたいかどうかが、問われるのかもしれません。
 私たち一人ひとりの土壌に蒔かれている種は、どんな状態にあるのでしょうか。

祈り

すべての人を照らしてくださる神よ、
 あなたは、暗やみにさまよう人たちがまことの道に立ち帰るように、
 真理の光を輝かせてくださいます。
 洗礼を受けたすべての人が、
 信仰に反することを退け、
 キリストに従って生きることができますように。
  集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 55章10~11節

(主は言われる。)
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
   むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節

(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、 取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、 服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、 神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 被造物がすべて今日まで、共にうめき、 共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、 神の子とされること、つまり、体の贖われることを、 心の中でうめきながら待ち望んでいます。

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福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、 イエスは舟に乗って腰を下ろされた。 群衆は皆岸辺に立っていた。 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、 そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞きなさい。」

  弟子たちはイエスに近寄って、 「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、 あの人たちには許されていないからである。 持っている人は更に与えられて豊かになるが、 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 イザヤの預言は、彼らによって実現した。
  『あなたたちは聞くには聞くが、
    決して理解せず、
  見るには見るが、決して認めない。
  この民の心は鈍り、
  耳は遠くなり、
  目は閉じてしまった。
  こうして、彼らは目で見ることなく、
    耳で聞くことなく、
  心で理解せず、悔い改めない。
  わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、 見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、 聞けなかったのである。」
 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、 心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 石だらけの所に蒔かれたものとは、 御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、 御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、 世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、 あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

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