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教会カレンダー

A年 年間第16主日

第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節

福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

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今日のテーマは、神の寛容です。
 「すべてに心を配る神」とはじまる第1朗読から、限りなく寛容であられる神の寛容さが賛辞されています。

続く第2朗読において、パウロはそれをキリストへの神の働きの中にみています。

福音においては、神が最後の審判の日まで、成長、回心を待ってくださっていることが描かれています。

毒麦を抜いてしまおうということは、頭にすぐに浮かんでくることです。
 善悪に種別し、判断し、より分けてしまう人のこころ、動きの激しい今の時代に“待つ”こと、人の判断を越えて導かれる方がおられることを信じていくことは大切なことでしょう。この信じるという視点から物事を見ていくことを訓練する日としてはいかがですか。

忍耐と愛の極みであるイエスの心こそ、それを示してくれます。今日のミサの中で共に祈りましょう。

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第1朗読では、知恵の書が読まれます。知恵の書は、旧約と新約を結ぶ いわば中間の書になっています。

知恵の書は、第1部(1~5章)において知恵と人間の関係を、第2部(6~9章)において知恵の性質を、第3部(10~19章)において歴史、ことに出エジプトの出来事に現れた知恵について述べますが、今日の朗読はこの第3部に属します。

神の裁きの正しさを告げる知恵の書は、過越の祭りに語られた説教の一部とも言われています。

知恵の書の著者は、旧約の歴史のいろいろな出来事の中に 神の寛容をみています。今日の朗読では、イスラエルの敵であるカナン人に対する神の寛容と、その理由について告げる箇所からとられています。

「すべてに心を配る神」、「すべてをいとおしむ方」、「寛容をもって裁く方」と神の姿を語ります。

この「神に従う人は人間への愛を持つべきこと」を教えています。

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第2朗読では、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」と、はじまる先週に続くローマの信徒への手紙が読まれます。

先週もご紹介したことですが、マルティーニ枢機卿は、「三つのうめき」(被造物のうめき、私たちのうめき、聖霊のうめき)の「聖霊のうめき」を語るの中で、こう述べておられます。

私たちのうちで叫び、祈りへと向かわせる聖霊のうめきを、あきらかに述べるのはおよそ不可能です。
にもかかわらず、聖霊の声を聞き分けることに成功するとき、私たちのうめきも汚れも洗い流し、完全になります。
私たちは……祈りをとおして、被造物のうめき、私たちの民のうめきを聞き取り、ことばに言い表せない聖霊のうめきに一致するまでに至らねばなりません。
聖霊のうめきは至高であり、深遠であり、聖パウロが私たちに理解させるように、根本的に“父よ!”という一言に要約され、私たちはその一言をまさに聖霊の力において、いつも最高の真理、平和、委託、優しさ、信頼を込めて言うことができます。

心の深いところでのうめき、そのうめきを聴かせていただく、それは私たちを祈りへと招きます。

今日の聖書の箇所は 2節だけですが、ゆっくりと味わうに値すると思います。

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今日の福音は、先週の「種まき」のたとえの続きで、「毒麦のたとえ」、「からし種とパン種のたとえ」、「毒麦のたとえの説明」となっています。

このたとえが語られる背景には、マタイの教会が体験した当時の状況があったのでしょう。確かに教会は、良い麦と毒麦の混ざった中で成長してきました。

毒麦を「抜き集めておきましょうか」と言うしもべに対して、たとえをもって答えられます。刈り入れのときに、刈る者が鎌で麦を刈り取るとき、毒麦を麦の中にいれないように、別にしておくことですから、この問いは、パレスチナの地方では、ごく当然のことのようです。

この問いの奥には、自分の考え、判断が正しいという自分に対する信頼があるようです。  しかし、私たちのそれを超えて、私たちを導いている方がおられるという視点、その方への信頼は欠落しているようです。

ことの善悪の判断を急がないのは、あいまいさやいい加減さだけでなく、外見からだけでは見極めるのが難しいこと、最後まで待たれる神の忍耐と 愛への信頼です。神の恵みが人間の考えを超え、予想でははかりえないものだからです。

神の手が働いているとき、どれほどの矛盾をはらんでいたとしても、教会は大きく成長していくのです。

この神の国の神秘、信仰の神秘を味わう一日とし、お互いに向けるまなざしを温かいものとしながら、私たちも迎え入れる共同体として成長したいものです。

祈り

 恵み豊かな神よ
  あなたを仰ぎ見る民に、
  聖霊を惜しみなくお与えください。
  信仰、希望、愛に燃えて、
  いつもあなたのことばに従うことができますように
  神の心にかなう者として成長することができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 知恵の書 12章13、16~19節

(主よ、)
すべてに心を配る神はあなた以外におられない。
だから、不正な裁きはしなかったと、
  証言なさる必要はない。
あなたの力は正義の源、
あなたは万物を支配することによって、
あなたの全き権能を信じない者に
あなたは御力を示され、
知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。
力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、
大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。
力を用いるのはいつでもお望みのまま。

神に従う人は人間への愛を持つべきことを、
あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。
こうして御民に希望を抱かせ、
罪からの回心をお与えになった。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章26~27節

(皆さん、“霊は”)弱いわたしたちを助けてくださいます。 わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 “霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。 “霊”は、神の御心に従って、 聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

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福音朗読 マタイによる福音書 13章24~30節

(そのとき、)イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。 「天の国は次のようにたとえられる。 ある人が良い種を畑に蒔いた。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。 どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。 そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。 『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。 刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、 麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
  イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。 「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、 空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 また、別のたとえをお話しになった。 「天の国はパン種に似ている。 女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、 たとえを用いないでは何も語られなかった。 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から
  隠されていたことを告げる。」
 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。 すると、弟子たちがそばに寄って来て、 「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、 刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、 世の終わりにもそうなるのだ。 人の子は天使たちを遣わし、 つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。 彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。 耳のある者は聞きなさい。」

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