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教会カレンダー

A年 復活節第5主日

第1朗読 使徒言行録 6章1~7節

第2朗読 ペトロの手紙1 2章4~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章1~12節

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今日のテーマは、復活されたイエス・キリストが教会の中で父にいたる「道」であるということです。
 この理解にいたるために、なんと長い時間が弟子たちにも必要だったことでしょうか。

弟子たちが分かったのは、十字架、復活、昇天と、イエスの姿を見た後のことでした。キリストが歩まれた十字架の道行きは、栄光への道、父への道になりました。

この体験をとおして教会は、単なる奉仕職でなく、復活したキリストを証し、キリストの言葉を宣べ伝えるという使命を果たしていきます。

教会は今日、この光のもとで典礼を進めていきます。

実に、神の言葉は、人間の挫折、対立、妨害……などのただ中にあっても妨げられることなく拡がっていきます。

元気あふれる初代教会の歩みの中で、学ぶところがたくさんあるように思えます。弟子たちと、教会を動かしている息吹を感じ取る日といたしましょう。

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第1朗読では、誕生したばかりの教会が、エルサレムで発展していった中でのエピソードが語られます。

この6章への移行は、初代教会においてとても大切な段階です。それまでは、ほとんどエルサレムを中心に発展してきた教会が、当時のユダヤ教会当局の干渉により、一時的に中断されていたのですが、この期にあって7人の選出により、迫害となり、それと同時にパレスチナの広い地域を越えてのキリスト教発展となっていったからです。

今日読む朗読では、エルサレムに誕生した教会が、異邦人の世界へと導かれる経緯が書かれています。

「ギリシア語を話すユダヤ人」の登場、12使徒を補佐する7人の選びが描かれています。ひとつのトラブルから神の御言葉の発展、教会発展の道が開かれていくのです。

「祈って彼らの上に手を置いた」行為は、今も助祭、司祭の叙階式で志願者に按手(あんしゅ)し、祈ることにより継続されています。

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「主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」とはじまる今日の朗読です。とても響いてくる、心にしみ通ってくる言葉です。

この第2朗読では、すべてのキリスト者が「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった」ことが言われています。

ここに言われていることは、旧約の民に与えられていた名称でした。しかし、今はキリストをとおして信じるすべての人がそう呼ばれるようになり、新しい神の民とされたのです。

ペトロは、神の家を支える礎石、壁として築かれる石、すべてが生きているので、この生きた家を構成するものを新しい名で「祭司」と呼んでいます。

神のものとされた人々は、招かれています。それは、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝える」ためです。

キリスト者一人ひとりがどのような使命をいただいているかを味わう日としましょう。

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今日の福音は、ヨハネの長い「別れの説教」の最初の部分にあたる箇所が読まれます。

イエスは、「わたしのいる所に、あなたがたもいる」のだから、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われます。

「騒がせる」という語の意味は、海面の水が風によって激しく波立ち、泡立つことをさす表現だそうです。このためどこに身をおいていいかわからなくなってしまう状態、混乱した状況をさします。

イエスとの別れは、弟子たちにとって悲しみ以外のなにものでもなかったのです。しかし、今イエスが、「わたしをも信じなさい」とご自分への信頼を呼びかけておられることに心を向けたいと思います。

トマの「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」との問いかけは、だれもが問いかけたい言葉ではないでしょうか。

それに対して、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言明されました。

教父聖アウグスチヌスは、「キリストは父のもとにおいて、道であり、真理であり、命であったが、私たちは真理にいたる道をもたなかった。……神の子が人になることにより私たちの道となってくださった」と言っています。

道・真理・生命(いのち)であるイエス・キリスト

現在の生活のためにも永遠のためにも、すべての善は神のうちにあります。 私たちの神との一致は、イエス・キリストによって聖霊のうちに成し遂げられます。イエスは神と人間の仲介者です。

「わたしは道であり、真理であり、生命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ 14.6)。すなわち、「イエスは、あなたがたがたどるべき道、あなたがたが信ずべき真理、あなたがたが望むべき生命です」(『キリストにならう』)。

主は恵みの状態にある人のうちにお住みになり、その人は主のうちに生きます。それは「神に栄光、人びとに平和」が実現されるためです。

イエス・キリストは、教会をとおして、人びとにこのみわざを果たしておられます。教会は、この同じ真理を説き、治め、導き、秘跡によって人びとを聖化しながら、世に恵みを与えます。こうして私たちは、地上においてイエス・キリストのうちに生きることができ、天においては永遠の幸福のうちに生きることができるのです。

                    アルベリオーネ神父の言葉

祈り

 いつくしみ深い父である神よ、
  あなたは御子キリストを復活させ、
  永遠のいのちに至る道を示してくださいました。
  わたしたちが危機や不安の中を歩むとき、
  あなたにいつも心を向けることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 6章1~7節

 そのころ、弟子の数が増えてきて、
 ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。
 それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。

 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。
 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、
 食事の世話をするのは好ましくない。

 それで、兄弟たち、
 あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。
 彼らにその仕事を任せよう。

 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、
 ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、
 アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、

 使徒たちの前に立たせた。
 使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

 こうして、神の言葉はますます広まり、
 弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

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第2朗読 ペトロの手紙1 2章4~9節

 この主のもとに来なさい。
 主は、人々からは見捨てられたのですが、
 神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

 あなたがた自身も生きた石として用いられ、
 霊的な家に造り上げられるようにしなさい。
 そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、
 イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。
 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、
 信じない者たちにとっては、
 「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」のであり、

 また、「つまずきの石、 妨げの岩」なのです。
 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、
 実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、
 神のものとなった民です。
 それは、あなたがたを暗闇の中から
 驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、
 あなたがたが広く伝えるためなのです。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 14章1~12節

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。
 そして、わたしをも信じなさい。

 わたしの父の家には住む所がたくさんある。
 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

 行ってあなたがたのために場所を用意したら、
 戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 トマスが言った。
 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。
 どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

 イエスは言われた。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。
 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
 今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。
 そうすれば満足できます」と言うと、

 イエスは言われた。
 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。
 わたしを見た者は、父を見たのだ。
 なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。
 わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
 わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。
 もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 はっきり言っておく。
 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
 また、もっと大きな業を行うようになる。
 わたしが父のもとへ行くからである。

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