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教会カレンダー

A年 四旬節第5主日

第1朗読 エゼキエル書 37章12~14節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~11節

福音朗読 ヨハネによる福音書 11章1~45節

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今日の典礼のテーマは、死に対する勝利です。キリストは死を超えて生き、同じ力によって、人も死を超えて生きます。これは理屈で理解できる範疇(はんちゅう)の事柄ではありません。

教会は今日、洗礼志願者のために洗礼の最後の準備として考え、そのための典礼を用意しています。教会は私たちがどのように生きるべきかを知らせ、死に対する勝利の希望で私たちの信仰を強めるのです。

すでに洗礼を受けている人は、最大の祝日である過ぎ越しの日を迎えるにあたり、自分の信仰生活を振り返りながら、洗礼志願者と共に「清めと照らし」を受けて新たにされます。

洗礼の秘跡によって罪に死に、復活のいのちに生きることを求め、今日も洗礼志願者のために特別に祈りましょう。

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第1朗読では、エゼキエルの有名な枯れた骨の復活の示現からとられています。神の霊を受けて骨が生き返るという記事の最後の箇所です。

預言者エゼキエルは、エルサレムにおけるエレミヤの活動に呼応するかたちで、バビロンの地で捕囚の民と共に住み、そこで民に神の言葉を告げ知らせます。

今日の朗読で言われている「墓」とは、捕囚地バビロンを指すと考えられています。バビロン捕囚10年後、エルサレムは滅亡しました。捕囚地にあって、たとえ物質的には満たされたとはいえ、神殿の崩壊により精神的によりどころをなくした状態でした。

神はこのような状態にある民に、ご自分の霊を入れて新しいいのちを与えようとされます。神の霊の力にあふれた新しい神の民が再形成されることを宣言しています。

「私が神であることを知るようになる」との表現はエゼキエル書に度々でてくる表現ですが、これは神の歴史への介入により、人々が神の主権を知るようになるということを意味します。力強い言葉として響きます。

神の主権、神のイニシアティブ、神の導きを祈る日としたいものです。

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第2朗読では、キリスト者の中に霊が宿り、その霊が復活の恵みを与えてくださるというローマの信徒への手紙が読まれます。

キリストは死を超えて生き、同じ力によって人も死を超えて生きるのです。
 これは理屈で分かるものではありません。

パウロは霊による勝利を力強く語り、死ぬべき体さえもキリストとともに新しくしてくださると言うのです。霊によるいのちを、すでに私たちは生きはじめているのです。

霊を授ける洗礼の日が近づいている今日の典礼で、教会は私たちにどのように生きるべきかを示し、死を超える希望で一人ひとりの希望を強めています。

キリストによってもたらされた洗礼のいのちについて祈る日、感謝の祈りをしたいものです。

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今日の福音は、ラザロの復活の話です。ラザロの復活はイエスの復活を先取りする大きなしるしとなった出来事です。

マリアとマルタは、ラザロの死を悼んで訪問してくれたイエスに向かい、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。

イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことをあなたは信じますか」と言われます。

あなたは信じますか。
 死を超えて生きるいのちを本当に信じますか。

イエスの「何を信じているのか」について、イエスは今日一人ひとりに問われているのではないでしょうか。

マルタは、「わたしは信じております」と答えました。

私は兄弟・姉妹を亡くした悲しみから、母を亡くした悲しみから、父を亡くした悲しみから立ち直り、「主よ、信じます」と答えます。

イエスを信じる者には永遠の命が与えられることの「しるし」としてのラザロの復活の出来事です。

今日の福音は長い福音ですが、イエスとマリア、マルタとの会話には非常に感動深いものがあります。ドラマのようにマルタの信仰告白によって盛り上がっていく福音の箇所です。

ゆっくりと読み、かみしめる一日としてはいかがですか。
 「あなたは信じますか」とのイエスのマルタへの問いを、今自分に向けられた問いとして、私はイエスに何と答えるのかを祈っていきましょう。

祈り

いつくしみに満ちた神よ、
  あなたは人類を深く愛され、
  キリストによって世界を死から救ってくださいました。
  四旬節をとおして洗礼の準備を進める人々とともに、
  教会が新しいいのちの喜びで満たされますように。
   集会祈願より

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第1朗読 エゼキエル書 37章12~14節

それゆえ、預言して彼らに語りなさい。
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。
わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。

わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、
わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。

また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。
わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。
そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、
行ったことを知るようになる」と主は言われる。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~11節

肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、
あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。
キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

キリストがあなたがたの内におられるならば、
体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、
あなたがたの内に宿っているなら、
キリストを死者の中から復活させた方は、
あなたがたの内に宿っているその霊によって、
あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 11章1~45節

ある病人がいた。
マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。
その兄弟ラザロが病気であった。

姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。
神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

弟子たちは言った。
「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、
またそこへ行かれるのですか。」

イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。
昼のうちに歩けば、つまずくことはない。
この世の光を見ているからだ。

しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

こうお話しになり、また、その後で言われた。
「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」

弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。

イエスはラザロの死について話されたのだが、
弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。

そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。

わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。
あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」

すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、
マリアは家の中に座っていた。

マルタはイエスに言った。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、
わたしは今でも承知しています。」

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、
「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。

イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。

家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、
彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、
後を追った。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、
心に憤りを覚え、興奮して、

言われた。「どこに葬ったのか。」
彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。

イエスは涙を流された。

ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、
ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。
墓は洞穴で、石でふさがれていた。

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、
死んだラザロの姉妹マルタが、
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、
言っておいたではないか」と言われた。

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。
しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。
あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
イエスを信じた。

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