教会カレンダー
B年 年間第6主日
第1朗読 創世記 3章16~19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節
福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
第1朗読 創世記 3章16~19節
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪(のろ)われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生(は)えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。
塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節
だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、
何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、
あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
わたしも、人々を救うために、
自分の益ではなく多くの人の益を求めて、
すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
わたしがキリストに倣(なら)う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節
さて、重い皮膚病を患(わずら)っている人が、
イエスのところに来てひざまずいて願い、
「御心(みこころ)ならば、
わたしを清くすることがおできになります」と言った。
イエスが深く憐(あわ)れんで、手を差し伸べてその人に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。
「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。
ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを
清めのために献(ささ)げて、人々に証明しなさい。」
しかし、彼はそこを立ち去ると、
大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。
それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、
町の外の人のいない所におられた。
それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
注:「重い皮膚病」は、1987年の新共同訳聖書とは異なります。
重い皮膚病にかかった人は、病んでいるが故に、社会から疎外されるということが、日本だけでなく、どこの世界でも同じであり、今でもそれはあります。
日本でのハンセン病患者の長い歩みが浮かんできます。
病気を負っていると共に、社会からの、しかも制度としても差別され、虐げられている状況にある人の孤独感と絶望感を、イエスは見、イエスの中に救う力があることのしるしとしてのいやしです。
そうすると、奇跡はメシア(=キリスト)としてイエスをあかしするものだと言えます。
今も、イエスは人間の運命に対して、人は叫びをあげることが可能であると言われます。そして、あらゆる可能性が奪い去られた状況のぎりぎりの所でも、イエスは人間にそれをさせることができる方です。
今日は、人びとの交わりから断ち切り、孤独と絶望に追いやる状況に目をとめ、そこからの叫び、人の心の深淵から祈る一日とさせていただきたいものです。
* * * * * *
今日の第1朗読で読まれる創世記は、日本の教会のために許可されている日本の教会独特の朗読箇所が選ばれています。
創世記の1~2章は、天地と人間の創造の物語、3章は神に対する罪を、4章は人間に対する罪について書かれています。
今日読まれる創世記の箇所は、人がどうして生まれたのか、どのようにして神に背いたのかについて述べた後に、つまり、へびに誘惑され、罪を犯した後の神の言葉です。
人が生きていく上に出合う苦しみ、女性の出産の苦しみと男性の労働の労苦、人間の死について語られています。それらは原罪によるものであることが描写されています。
今もそうですが、出産は命がけのことであり、また当時の農耕も大変なことでした。自然環境の厳しさの中で、実りをえるための労働は、非常に苦しいものでした。
これら代表する苦しみを述べながら、どうしてこの世界に苦しみが存在するのかという人間の問いに対し、世界に存在するさまざまの苦しみは、創造主である神に背いて、人間が神から離れてしまったためであると、創世記の著者は述べるのです。
「塵にすぎないお前は塵に返る」とは、神の前に生きる人間の基本的なこととして響くことばではないでしょうか。
* * * * * *
今日の第2朗読は、コリントの信徒への手紙1からです。今日読まれる箇所は、パウロが8~10章までに渡って論じた「偶像に供えられた肉」を食べて良いかどうかという問題についての結論です。
キリスト者の自由は「すべて神の栄光」のためになるように使うべきであるとパウロは言います。
パウロの価値観の序列、つまりキリストに倣うこと、愛についての優位が浮き彫りにされています。
このような問いかけは、今も通じるのではないでしょうか。
パウロが導き出した結論を、ゆっくり味わう一日としたいものです。パウロは、「あなたがたもわたしに倣う者」であるようにと結んでいます。
* * * * * *
今日の福音は、イエスが重い皮膚病の人をいやす奇跡です。
不治の病とされていた重い皮膚病にかかった人は、病気の苦しみだけでなく、汚れた者とされていたばかりか、罪人として社会から差別、疎外されていました。生きている間、この人びとは、死んだも同然の扱いをされ、社会生活や祭儀に加わることが許されません。
だれとも交わることができないので、生きながら孤独という地獄に落とされます。この状況は、遠く聖書の世界にいかずとも、世界各地、そして日本の中での歴史を一瞥(いちべつ)すれば分かることです。今もって人の心には、そのような疎外感がひそんでいるでしょう。
汚れた者、罪人という二重の苦しみを背負わされた重い皮膚病を患ったこの人に触れるイエスは、病人のために来た医者、解放者、いやし人として福音に登場します。
イエスに近づいてひざまずいて必死になって願うこの人に、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」、たった一言、「よろしい。清くなれ」でいやされます。
「深く憐れんで」という語は、「スクランクナ」で元来は「心臓、肺、肝臓、腸」のような内臓を意味する言葉だそうです。私たち東洋の文化でもそうですが、ギリシア人はこれらの内臓に、感情、ことに愛情の座があると考えていたそうです。
この単語から派生した動詞(今日の福音で用いられているのですが)は、同情して心を動かす、腑(はらわた)が揺り動かされる、人間の存在の深みまで動かす深い同情を示す語になったのです。「イエスが腑を揺り動かされて、手を差し伸べられる」と読むと、そこまでにイエスは感じられたのだ、と今日のみことばは伝わってきませんか?
「神のあわれみの腑」、「コンパッション」について書かれた書をご紹介したいと思います。『コンパッション(あわれみ)』(女子パウロ会 発行)です。この本について寄せられた読書感想文の多くが、神であるイエスが腑を動かされるまでに、人を愛してくださったことに、読者の心が揺り動かされたことが書かれています。
イエスは、「よろしい。清くなれ」と言われます。イエスがよろしいと、望まれるのです。なんと力強い、ありがたい断言でしょうか。
ところで、重い皮膚病をいやされた人は、イエスからいやされたことを「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」と言われたにもかかわらず、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」とあります。
重い皮膚病の人がイエスのこの命令を無視した結果、「イエスはもはや公然と町に入ることができなく」なります。しかし、だれがこの人を責めることができるでしょうか。
この彼の行動に、彼の解放された喜びが伝わってきませんか。彼にとってこうせざるを得ないくらいのイエスのあわれみに触れた、喜ばしい出来事だったのです。
腑が揺り動かされるほどの愛を味わわせていただく一日としましょう。
祈り
聖なる父よ、
あなたは、
正義を求める人、
誠実な人とともにおられます。
わたしたちが、
恵みに支えられてゆたかな実りをもたらすことができますように。
集会祈願より
▲ページのトップへ