home>カレンダリオ>教会カレンダー

教会カレンダー

B年 年間第14主日

第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節

福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

今日の福音は、イエスがご自分の故郷に行かれ、故郷の人びとの不信仰に驚いておられます。

このイエスの体験は、イエスの宣教生活に大きな転換をもたらします。イエスは、約束の民への「よき訪れ」を述べることをどれほど望まれたことでしょうか。

それまでイエスはユダヤの「会堂」で教えておられましたが、この時からイエスは会堂に足を踏み入れられません。

イエスへの民のつまずきは、これから後もイエスの死にいたるまで続きます。十字架は、民にとって最高のつまずきとなるのです。

神から遣わされた人は、どのような状況にあっても神のみ心を述べ伝え続けなければなりません。往々にして、神のお望みは人の願っていることと合わないことがあります。遣わされた人は、どんな状況にあっても神にのみ信頼し、ゆだねて宣教するのです。
 今日の3つの朗読は、そのことをよく物語っています。

神からの言葉は預言者、宣教者を立ち上がらせます。神は一人ひとりに固有の呼びかけをされますが、神はあなたになんと語られるのでしょうか。その言葉を聞かせていただく1日としてはいかがでしょうか。

* * * * * *

今日の第1朗読は、大預言書の一つ、「エゼキエル書」が読まれます。他の大預言書と較べこの書は詩で語られた部分が少なく、散文の形で書かれたものが多いという特徴があります。
 また、幻などの描写にも内容的に非常に強い個性があります。

捕囚の地バビロンにいたエゼキエルは、祖国に残った民や捕囚の地にいる同胞が、神への不義、不忠実を改めないまま、「これ以上危機はこない」とか「祖国に帰れる日は近い」などと言っていることに対して、神の裁きを述べます。
 しかし、神の裁きを述べた後、今度は希望を説いて民を回心に導こうとします。

エゼキエルの言葉は、鋭く、人の心を打つほど切々としています。

今日読まれる箇所は、第1部、エゼキエルの召命(1~3章)からです。預言者エゼキエルが不思議な幻を見た後に、はじめて神の語りかけに耳を傾け、預言者としてのお召しを受ける個所です。「エゼキエル」とは、「神が強くする」という意味です。

今日の言葉から伺えるように、エルサレム滅亡(紀元前587年)から第2回の決定的捕囚にいたるまでのエゼキエルの活動は、神の裁きの予告でした。彼は、民の罪をあくことなく指摘し、神の審判の必然性を強調します。エルサレム滅亡後、この視点は転じて、神の救いの告知となり、希望をもたせるものとなります。

私たちは今日、歴史の中で大きな影響を与えたエゼキエルの召命に関する記事を聞くのです。「反逆の民」は、「自分たちの間に預言者がいたことを知る」。エゼキエルの存在がその「しるし」となるのです。神は民が拒もうと、無条件に語りかけられます。

私たちは今日、エゼキエルの召命の記事をどのように聞くのでしょうか。

* * * * * *

当時の世界の果てまで福音を宣教したパウロです。今日読まれる個所のすぐ前に「あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです。それで、……」とあります。パウロが偉大な幻を見た後、サタンから打たれ、「離れ去らせてくださるように、わたしは3度主に願いました」とあります。

その後、あの有名な主のお答えがあります。
   わたしの恵みはあなたに十分である。
   力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。

迫力とダイナミズムに満ち満ちて使命を果たしたパウロですが、内面の苦悩と困難に対して、主の力がなければ前進できないほどでした。

「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」という言葉のもつパラドックスは、第1朗読の預言者の生涯に照らして見る時、もっとよく理解できます。

パウロにとっての弱さとは、何だったのでしょうか。パウロは「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と言います。この中にパウロはキリストの力が宿っていると告白しています。

みなさんにとっての弱さは何でしょうか。

どのような弱さの中にあっても、それこそがキリストと出会う場であるとパウロは言います。どのような状況にあっても砕かれることのない魂の内なる力、キリストの力を信仰告白する祈りとしてみてはいかがでしょうか。その時、どのように内面に響き、感じ、からだはどんな表現をとるのでしょうか。

* * * * * *

今日の福音の朗読は、イエスが故郷にお帰りになったことを述べるマルコの個所です。

イエスの郷里の人びとは、イエスとその身内のことをよく知っていました。ですから、イエスが会堂で教えられ、それを聞いた人びとは、 イエスの口から出る言葉に驚いたのです。

「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と。

内面からの問いかけがあっても、こだわりがあるなら、驚きも人を変えません。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。……」とのこだわりから、故郷の人びとはイエスにつまずいたのです。

イエスの故郷ナザレの人びとは、律法と預言者をもつユダヤ人でした。しかし、この地でイエスを信じたのは、彼らではなく、(百人隊長などの)「異邦人」と呼ばれる人びとでした。

人びとの驚き、それをイエスの身内に目を向けるのではなく、つまり自分たちと同じくただの人間と見るのではなく、イエスの背後で働いておられる神に向けられたら、人びとの驚きはつまずきではなく、別の動きになったことでしょう。

イエスは、故郷の人びとの不信仰に驚かれ、この地を去ります。イエスはこの機を境に会堂にもはや入らず、ガリラヤを出て、他の地に向かわれます。

すべての預言者の運命同様、イエスも故郷では受け入れられなかったのです。ナザレの人びととイエスは、自然のつながりはあっても、神との関係では大いなる隔たりができてしまいました。

自分の知っている「神」、「祈り」、拒否するためのいろいろの口実を手放す時、自分の作り上げてきた「神」「祈り」から解放され、神とのつながりに入れていただけるのです。

今日、神はどのように私たちにご自身をあらわしておられるのでしょうか。

祈り

聖なる父よ、
  あなたは倒れていた世界を、
  キリストの死によって新しいいのちに立ち返らせてくださいました。
  信じる者を罪の束縛から解放し、
  終わりのない喜びにあずからせてください。
   集会祈願より

▲ページのトップへ

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節

彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、
わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。

主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、
わたしに逆らった反逆の民に遣わす。
彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。
彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。

彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、
彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。

▲ページのトップへ

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節

思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、
サタンから送られた使いです。

この使いについて、離れ去らせてくださるように、
わたしは三度主に願いました。

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、
そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

▲ページのトップへ

福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。
この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
この人は、大工ではないか。
マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
このように、人々はイエスにつまずいた。

イエスは、「預言者が敬われないのは、
自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

▲ページのトップへ