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教会カレンダー

B年 年間第24主日

第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節

第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節

福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

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イエスのそばに従ってきた弟子たちにイエスは「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」との問い、その返事を聞かれたイエスは、今度は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。
 ペトロはみなを代表して「あなたは、メシアです」と答えます。

みなさんはこの問いかけをどのように受け止められますか。どのようにあなたは答えるのでしょうか。

福音で読まれる今日の箇所は私たちに伝えられている最古の信仰告白の場面です。この信仰告白は、それが共同体のものであるということも伝えてくれています。

この信仰告白の後、使徒たちの信仰が最高の試練を受ける歩みに入っていきます。

第1朗読ではイザヤの「主のしもべの歌」の一つが読まれます。この歌そのものが旧約の頂点を示していますが、同時にその姿の中に弟子たちはイエスの姿をみています。

ペトロにとって、また弟子たちにとってイエスがメシアであることを認めるのは難しくなかったのです。彼らに困難だったのは、信仰者に求められる代価でした。十字架の道をとおしてでないと復活の道はないと分かっているものの、それが具体的生活で求められる場におかれた時、どのような態度をとるのでしょうか。

今日は、言葉をいただきながら、イエスと同じ道を歩むとは具体的にどういうことなのかを祈らせていただく1日としてはいかがでしょうか。

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今日の第1朗読は、イザヤ書の「主のしもべの歌」の3番目からとられています。イザヤは神との深い関わりの中で生きる主のしもべが、苦難にもかかわらず、神に信頼し与えられた使命を忠実に生き、神への従順を生き抜いた姿として描いています。

主のみ言葉を忠実に語るためにしもべの出会う困難があります。忠実であるために彼を「打つ」人がいるのです。ここに預言者の苦悩があります。

彼は受ける侮辱、迫害を静かに耐えます。耐えることができたのは、彼を助け、支えてくれる神の存在があり、これに彼は信頼をおいていました。

この「主のしもべ」の中に初代教会はイエスの受難と復活を重ねみていました。この意味するところは、キリスト者一人ひとりがイエスによってあがなわれ、永遠のいのちを受け、その勝利にあずかることを信じ、確信していたということです。

神への信頼をもって神の救いが近いことを宣言する預言者イザヤの言葉ですが、イエスはこの「主のしもべ」のようにご自分に託された使命を生き抜き、苦難の道を引き受け、救いの道を開かれたのです。

2回も出てくる「主なる神が助けてくださる」との言葉が深く心に響き、中に入ってきます。この信頼の祈りを私はどのような時にするのでしょうか。

みなさまのある人は、ガンジーやキング牧師……は現代における「主のしもべ」として、思い起こされるのではないでしょうか。

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第2朗読はヤコブの手紙からです。

「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」との言葉はヤコブの手紙の中で最も知られた箇所です。信仰は行いにおいて、具体的な行動の中に表現されるのです。

今日の朗読の箇所は、それを非常に具体的に言い表しています。彼の具体的な教えは、実に明確です。

この言葉に照らされて私たちの日々の生活を振り返ってみましょう。
 「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」とは、どんなチャレンジを私に求めるのでしょうか。

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今日の福音は、マルコ福音書前半の結論ともいうべきペトロの信仰宣言とそれに続くイエスの勧めです。

ペトロの信仰宣言を出発点として、「十字架の道」がはじまります。マルコ福音書には3回受難の告知の記事がありますが、今日読まれるのは1回目の告知です。

この受難の告知は、告知、無理解、勧告という流れの中で書かれ、だんだんと明確になっていきます。

受難の告知
第1回目 第2回目 第3回目
受難の告知 8.31 9.30-31 10.32-34
弟子たちの無理解 8.33 9.32 10.35-40
イエスをいさめる イエスの言葉が理解できない 先頭を立って行かれるイエスに驚き、恐れを覚える
勧告 8.34-38 9.33-36 10.41-45
十字架をとって従うこと みなに奉仕すべきこと 仕える者となること

マルコ福音書は十字架の道に向かってクライマックスに進んでいくので、この機会にマルコ全体を読み直してみるのも一つの手です。

ペトロの信仰宣言は、福音書全体が意図したイエスに対する表明に他なりません。この信仰宣言から、次の歩みがはじまっていきます。つまり、イエスの十字架上の死を体験し、復活後の真の信仰宣言へと導かれていきます。しかし、十字架の道、十字架を越える旅においては、イエスを、信仰を裏切るのです。イエスから「サタン、引き下がれ」と叱られた体験、叱かられてもイエスの後を歩んでいきたい、イエスを離れまいとの決意を固めたいのです。十字架をとおして私たちを救ってくださるイエスを伝えるのが聖書であり、私たちの宣教です。

弱い人間性の中に生きている私たちですが、それを感じつつも、イエスと運命を共にする決意をあらたにしたいと思います。

祈り

天地万物を造り、
治められる神よ、
あなたの民を顧みてください。
わたしたちが救いの力を知り、
心を尽くしてあなたに仕えることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節

 主なる神はわたしの耳を開かれた。
 わたしは逆らわず、退かなかった。
 
 打とうとする者には背中をまかせ
 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
 
 主なる神が助けてくださるから
 わたしはそれを嘲りとは思わない。
 わたしは顔を硬い石のようにする。
 
 わたしは知っている
 わたしが辱められることはない、と。
 
 わたしの正しさを認める方は近くいます。
 誰がわたしと共に争ってくれるのか
 われわれは共に立とう。
 
 誰がわたしを訴えるのか
 わたしに向かって来るがよい。
 見よ、主なる神が助けてくださる。
 誰がわたしを罪に定めえよう。

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第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節

 わたしの兄弟たち、
 
 自分は信仰を持っていると言う者がいても、
 行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。
 そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
 
 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、
 その日の食べ物にも事欠いているとき、
 あなたがたのだれかが、彼らに、
 「安心して行きなさい。温まりなさい。
 満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
 体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
 
 信仰もこれと同じです。
 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
 
 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」
 と言う人がいるかもしれません。
 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。
 
 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

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福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

 イエスは、弟子たちと
 フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
 
 その途中、弟子たちに、
 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
 
 弟子たちは言った。
 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
 ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『
 預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 
 そこでイエスがお尋ねになった。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
 
 ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
 
 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと
 弟子たちを戒められた。
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、
 長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
 三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
 
 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
 「サタン、引き下がれ。
 あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、
 わたしに従いなさい。
 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
 わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

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