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教会カレンダー

B年 四旬節第5主日

第1朗読 エレミア書 31章31~34節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節

福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

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四旬節も深まり、イエスのご受難の記念を間近にひかえ、教会は預言書とイエスの生き方から、神にささげる心のあり方を学んでいきます。

あらためて教会が提供する神のみ言葉を追っていくと、十字架への道に私たちを導いていることに気づきます。

この道をとおして、イエスがご自分の死と復活にあずからせてくださる洗礼の意味を、洗礼志願者と共に考えてみる一日としてはいかがですか。

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今日第1朗読で読まれるエレミア書は、旧約聖書の中でも頂点を示す箇所と呼ばれるところです。

エレミヤが活躍した紀元前7~6世紀は、イスラエルにとって非常に難しいバビロン捕囚(ほしゅう)の時代でした。

エレミヤが生涯をかけたイスラエルの民の悪の根絶は、イスラエルの民の不信に出会って失敗し、エルサレムは、滅亡の一路をたどることになります。そのような時に、エレミヤは、将来にまなざしを向け、神の救いへの希望、シナイ契約にまさる「新しい契約」について述べます。

エレミヤが情熱を込めて語った「新しい契約」とは なんなのでしょうか。
 今日の朗読は、それがなんであるかを描写します。

「胸の中に授け、心に記す……。」

エレミアの苦難に満ちた生涯の終わり、苦しみのどん底にあった時に、「新しい契約」という喜ばしいニュースが語られたのです。真に今日の朗読はイエスにおいて可能になった新約の本質を指し示しています。

深い内容をもった今日の箇所を、ゆっくりとかみしめたいものです。

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今日第2朗読で読まれるヘブライ書は、たった3節の短いものです。

ヘブライ書は、神と人との間にたって神にささげものをする大祭司という視点で考えられていますが、3節という短い中に、キリストの奉献の姿を見事に描写しています。

人となられたキリストの祈りによって、しかも激しい叫び声をあげた、涙を流しながらの祈りにより、内的に変容し、多くの人びとの救いの源になったと記すヘブライ書の中心思想ともいえる箇所です。

幾世代にもわたって多くの人びとの心を打ち、支えとなっているイエスのゲッセマニの園での祈りを思い出されませんか。

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ヨハネ福音書は、受難を前にしたイエスについて述べます。その中で「一粒の麦」のたとえが読まれます。

たとえに続いて、ヨハネ福音書におけるゲッセマニの園と呼ばれている箇所が読まれます。

今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。
しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。

ここでは、ゲッセマニの園でのイエスの苦しみには触れられていません。ヨハネはイエスの近づく受難と死をみつめて、それを栄光の時と言います。ヨハネは、イエスの死を「栄光を現す」時という視点から述べているのです。

だれでも一度は体験しなければならない死、こればかりはだれにも例外はありません。死の迎え方は千差万別です。

いろいろの死がありますが、イエスの死ほど 世界の人びとに大きな影響をもたらした死はないのではないでしょうか。

死を目前にしてイエスは、心動かされています。近づく受難と死を見つめながら、その事実を、そのまま祈っておられます。「わたしは心騒ぐ」と。そして、その祈りは「父よ」と父なる神に向かいます。

今日紹介されるこのイエスの姿は、私たち一人ひとりへの呼びかけともなっているのです。

祈り

父である神よ、
  ひとり子イエスはあなたへの愛と従順を貫き、
  すべての人の救いのために、すすんで受難の道を歩まれました。
  わたしたちも、あたなたに対する信頼をもって、
  恐れることなく主の道を歩むことができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 エレミア書 31章31~34節

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と
新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取って
エジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、
彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と
結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
彼らの心にそれを記す。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、
「主を知れ」と言って教えることはない。
彼らはすべて、小さい者も大きい者も
わたしを知るからである、と主は言われる。
わたしは彼らの悪を赦(ゆる)し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

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第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節

キリストは、肉において生きておられたとき、
激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、
御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、
その畏(おそ)れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

キリストは御子であるにもかかわらず、
多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、完全な者となられたので、
御自分に従順であるすべての人々に対して、
永遠の救いの源となりました。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た
人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、
「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
フィリポは行ってアンデレに話し、
アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。

イエスはこうお答えになった。
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、
わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。
しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。
「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、
ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、
わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
わたしは地上から上げられるとき、
すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、
こう言われたのである。

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