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教会カレンダー

C年 主の昇天

第1朗読 使徒言行録 1章1~11節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節

福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節

復活後40日目に主の昇天を祝います。この日、日本では守べき祝日でないので、40日目の木曜日ではなく、復活節第7主日(つまり今日)に祝います。

主の昇天の祭日は、イエス・キリストの十字架とは、死とは、いったいなんであったのかについて一つの答、意味を示しています。

主のご昇天は、キリストの死と復活に続いて語られる話ですが、昇天はそれらとどのような関係があるのか、今日の朗読は教えてくれています。

主の昇天の出来事により、イエスと弟子たちとの交わりは一つの転機を迎えます。それは、教会の活動の幕開けの時が告げられることであり、イエスが告別の説教で告げておられた聖霊による新たな交わりの時の到来です。

* * * * * *

第1朗読では、ABC年とも、使徒言行録冒頭部分であるご昇天の出来事の叙述が読まれます。それは、ルカ福音書の続きとしてこの書がつづられているということではじめられています。

その記述の後、イエスが復活後40日間に語られたことを紹介し、昇天の出来事の詳細を述べます。ルカが記すこのような記述は、他の福音史家がだれも述べないことなので大切な文献となっています。

次に、イエスはご昇天に先立って弟子たちに聖霊が降ることについて語られます。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

こうして教会のはじめの時がはじまる聖霊降臨が告げられ、聖霊を受ける弟子たちは力を受け、イエス・キリストの証人となり、福音をすべての人に宣べ伝える使命を果たします。この宣教の使命は、使徒言行録のメインテーマです。

その話の後、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられ」、イエスは「雲に覆われて彼らの目から見えなく」なります。この時こそ、教会が救いの担い手となっていく時です。

天と地における出来事は、別々のものではなく同時に進行しているものです。イエスが「主」となられたので、イエスの後を継いでいる弟子たちの業は、新たな場、全世界において再現されていきます。
 ですから、弟子たちは悪霊を追い出し、病人をいやし、福音を宣べ伝えていくのです。こうして、終末に向けての新しい時代がはじまります。

今日祝う主の昇天は、イエスの地上での使命の終局、聖霊降臨の序曲、つまり、イエスが聖霊による新しいあり方で人々の中に生きるはじまり、永遠の大司祭職の行使のはじまりでもあるのです。

天使の告げる言葉、「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とは、なんと印象深い言葉でしょうか。
 あなたはこの言葉をどのように聞きますか。

* * * * * *

第2朗読では、ABC年共通にエフェソの信徒への手紙が読まれていましたが、1981年に公布されたミサ聖書配分では、C年にヘブライ人への手紙が読まれるようになりました。

パウロは、キリストがささげた犠牲が比類ないものであることを述べるにあたって、旧約との比較の中で一大飛躍を試みます。つまり、「あがないの日」の犠牲は聖所の汚れを取り除きますが、キリストの犠牲は、地上のものばかりではなく、天のものも浄めることができるのです。キリストの業が天でも地でも効力をもつということは驚くべきことです。宇宙的贖罪と言われ、見えるもの、見えないもの一切が浄められるのです。

キリストのみ業と犠牲が最大のものであることについて著者は次の点をあげます。

* キリストは、「人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り……神の御前に現れてくださった」
* キリストがそうなさったのは、私たちのためであること、私たちのために取りなしをしておれらること
* キリストは、「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられ」、繰り返す必要がないこと

パウロは、自分が述べてきたことを実際生活にあてはめようとします。

* キリストは、神のみもとに導いてくださる「新しい生きた道」であること
* キリストは神と人を結ぶ大祭司であること

 ですから、

* 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか
* 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう

とすすめます。

力強い、励ましの言葉として響きませんか。心を開いてこの勧めを迎え入れましょう。

* * * * * *

福音書を理解する鍵は、福音書の結びであるといわれています。
 今日読まれるルカ福音書は、「イエスは、……祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というイエスの姿を描いています。そして、弟子たちは、「……、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」で結ばれています。イエスの別れが、喜びと賛美の雰囲気の中に物語られています。

ルカの福音書のはじめに、祝福、神殿、喜び、賛美というテーマが登場しましたが、結びにも同じテーマが登場しています。こうして、旧約から新約へと受け継がれていくことを示しています。

ルカにとって、エルサレムは救いの歴史の中心でした。イエスの生涯はすべてエルサレムに向けられています。イエスは、エルサレムに向かって旅をしていたと書いています。復活後のイエスの出現も、すべてエルサレムとその周辺に限られています。

この「エルサレム」という言葉には、いろいろの意味があります。エルサレムは旧約の時代から神の民の都、神殿のあった信仰の中心地でした。イエスの救いの業がまっとうされる舞台、今は天の「新しいエルサレム」として神の国の完成した姿を示しています。

福音史家たちは、それぞれだれに向けて語ったかにより、その目的を変えてつづっています。この機会に福音書を読み比べてみるのもいいかもしれません。

エマオで現れる   ルカ福音書 24.13~35
弟子たちに現れる   ルカ福音書 24.36~43
マルコの福音書の結び   マルコ福音書 16.9~20
弟子たちを派遣する   マタイ福音書 28.16~20
イエスの最後の言葉   マルコ福音書 16.15、19 ルカ福音書 24.44~53

ルカは、イエスの昇天を述べる前に弟子たちの使命について述べています。

* メシアは苦しみを受け、
* 三日目に死者の中から復活する。
* また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
* その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる
* あなたがたはこれらのことの証人となる。

弟子たちは神が述べ伝える悔い改め、イエスの受難と復活を見聞きして、それをすべての国に述べ伝えます。

使命について語られた後、イエスは弟子たちを「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられ」ました。
 それをみた弟子たちは、「イエスを伏し拝み」、「大喜びでエルサレムに帰り……神をほめたたえ」ながら、父なる神が約束してくださった聖霊をまちます。

イエスのご復活の後、教会はご昇天を祝い、さらに聖霊降臨、三位一体と祝っていきます。イエスが父のみもとに帰ることによって聖霊を遣わされる、実にイエスの昇天は天と地を結びあわせるものでもあるのです。そう考えるとこの祝日は、私たち一人ひとりの祝日でもあるのです。

祈り

全能の神よ、
  あなたは御ひとり子イエスを、
  苦しみと死を通して栄光に高め、
  新しい天と地を開いてくださいました。
  主の昇天に、わたしたちの本来の姿が示されています。
  キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、
  ともに永遠のいのちに入らせてください。
   集会祈願より

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第1朗読 使徒言行録 1章1~11節

 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、 イエスが行い、また教え始めてから、 お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、 天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
 イエスは苦難を受けた後、 御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、 四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、 父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、 あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 さて、使徒たちは集まって、 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、 この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、 あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 イエスが離れ去って行かれるとき、 彼らは天を見つめていた。 すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。 あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、 天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

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第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節、10章19~23節

 キリストは、まことのものの写しにすぎない、 人間の手で造られた聖所にではなく、 天そのものに入り、 今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 また、キリストがそうなさったのは、 大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、 度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。 ところが実際は、世の終わりにただ一度、 御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、 現れてくださいました。 また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、 二度目には、罪を負うためではなく、 御自分を待望している人たちに、 救いをもたらすために現れてくださるのです。
 それで、兄弟たち、 わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、 つまり、御自分の肉を通って、 新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、 体は清い水で洗われています。 信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、 公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。

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福音朗読 ルカによる福音書 24章46~53節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「聖書には)次のように書いてある。 『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、 その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。 エルサレムから始めて、 あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。 高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、 手を上げて祝福された。 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

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