home>カレンダリオ>教会カレンダー

教会カレンダー

C年 主の洗礼

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節

第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節

福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節

クリスマスを中心にした待降節、降誕節をしめくくるのは、今日の“主の洗礼”の祝日です。

初代教会では、主イエスの洗礼の中に、キリスト者の洗礼の原型を見ていました。さらに主の受洗によって、「神の霊が降り」、主が神のメッセージを伝える預言者として立てられたという重大な出来事をも見ていました。主の洗礼は、イエスが福音宣教という使命を果たしていくための準備でもありました。

そのため、福音記者はいずれも“主の洗礼”を伝えています。主イエスの場合、この洗礼の出来事は、終末的な出来事として描写されています。

東方教会では、主の降誕、主の公現、主の奉献、主の洗礼、カナの婚宴の出来事を主の顕現(イエスのうちに神の栄光が現れたこと)の神秘として、一つの祝日として祝っていましたが、東西両教会の交流により主の降誕、主の公現と別々に祝うようになった時に、主の洗礼も別に祝われるようになりました。

教皇ヨハネ・パウロ2世が「ロザリオ年」の時に、「光の神秘」を新た加えられましたが、その第1の黙想は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたことです。この神秘を黙想しながら、一人ひとりの洗礼の恵みを神に感謝し、聖霊に導かれて、神の子として生きることができるよう聖母の取り次ぎを願うことが勧められています。
 今日は、聖母とともに主の受洗を黙想することをおすすめいたします。

* * * * * *

第1朗読は、ABC年共通の朗読を読むこともできます。それは、第2イザヤ書に属するイザヤ書42章1~4、6~7です。第2イザヤ書で忘れてならないのは、バビロンからの解放の訪れと主のしもべです。この二つは第2イザヤ書の1部、2部として対応しているテーマです。

C年では、この第2イザヤ書の第1部40章が読まれます。

バビロン捕囚からの解放の訪れが述べられています。この解放が「歴史書」に描かれているエジプトからの解放、荒野の旅、天地創造のイメージとみごとに重ねられていることに注目してください。

「慰めよ」とはじまる40章ですが、ここで見いだすのはドラマと神秘と希望にみちたメッセージです。「慰めよ」と2回も言われている主のご命令は、いったいだれに向けて発せられているのでしょうか。

預言者が語ったバビロンの捕囚の地で、自分たちを捕らえた人たちの前で、神殿と祖国を失いなすすべもなく悲嘆にくれている民、心傷ついている民に語られたメッセージは、同時にこれを今日聞く私たちにも語られているのではないでしょうか。

続いて「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え……」と第2の命令が出されます。

この命令は、「主の栄光が……現れるのを、内なる者は共に見る」とはっきり表明することで頂点に達します。「主の栄光」の概念は、第2イザヤにおいて神学的に大切なものの一つです。神の臨在の表明である主の栄光は、エルサレムの回復した神殿に帰還できるまで、捕囚の民と共にあるのです。

「声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ」と何か、引き込まれていく感じがしませんか。「恐れるな」の後には、何か神の側からの託宣があるに違いないからです。

苦しみにある民に、主なる神が介入されるのです。それをまもなく体験するだろうとの預言です。民は見捨てられたのではなく、神の慈しみ深い愛のもとにはいったという喜ばしい「よい知らせ」です。

民を救いにきてくださる神、しかも勝利に満ちた存在としての神のイメージで描かれている結びの言葉は、羊飼いの姿で描写されています。

神が共におられるということほど、私たち人間にとって力強いことはなく、そこには癒しと和解と大きな喜びがあります。

神が不在であるように思える体験と神が共におられるという体験、その移行を告げる預言者の言葉をかみしめる日としてはどうでしょうか。このテーマこそ降誕節の中心テーマだと思います。

* * * * * *

ABC年共通の第2朗読では、使徒言行録10章34~38節が読まれます。C年固有ではテトスへの手紙が読まれます。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」とはじまるテトスへの手紙ですが、新約聖書の中で、主の受肉についてこれほどいきいきと語っている箇所はほかにないのではないでしょうか。

人々の心の変化をもたらす人となられたイエスについて描かれています。
 「不信心と現世的な欲望を捨てて」から「思慮深く、正しく、信心深く生活する」という変化です。
 このように変化された人は、「祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望む」、つまり、キリストの来臨を希望する人です。

神との親しい関係をとり戻してしてくださったという受肉の恵みは、誰ひとり自分の力で得られるものではなく、たまものなのです。神からの贈り物なのです。神の人間に対する愛によるものなのです。人の功績によるものはいっさいありません。

この神の恵みと愛は聖霊です。この恵み、聖霊が注がれたという現実を味わう1日としたいものです。

* * * * * *

福音史家たちは、いずれも主の洗礼について伝えていますが、今年C年はルカ福音書が読まれます。

このように4福音史家すべてが伝える出来事は、この出来事が非常に意味があること、重大な出来事であるということです。
 このような機会に、読み比べてみると、いろいろの発見があるでしょう。お勧めします。

今日読まれるルカ福音書の場合、イエスの受洗そのものよりむしろ受洗後に起こった出来事に強調点があるようです。

「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け」と次の節、受洗後の出来事にいきます。
 このイエスの「祈っておられる」姿の叙述は、ルカ福音書のみです。このことで、イエスの上に聖霊が降ったことと、神の声にスポットがおかれていることが分かります。

イエスに聖霊が降ったことと、続く神の声で、イエスこそ民が待ち望み、洗礼者ヨハネが聖霊で洗礼を授けると預言していた「救い主」であると宣言されたのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声の響きには、詩編2、イザヤ書42章のバックグラウンドがあります。この声は、「神のしもべ」と呼ばれる者の上に響いた声でした。

洗礼によって人間の仲間入りした神の子イエスが、いよいよ「神のしもべ」の使命に出発する、宣教をはじめられる、すべての民の先頭にたって神の道を歩まれるのです。この声に支えられ、イエスは弱い人、打ち砕かれた人の友……となって、十字架の道へと進んで行かれます。洗礼とは、まさにこのようなことなのです。

あなたにとって洗礼とはなんでしょうか。洗礼の時の宣言を思い出し、あらたにする日として過ごすのは有意義なことでしょう。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声は、あなたにはどう響いてきますか。

祈り

全能永遠の神よ、
  ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスに
  あなたは聖霊を注ぎ、
  愛する子であるあることを示してくださいました。
  洗礼によって新たに生まれ、
  あなたの子どもとされたわたしたちが、
  いつもみ心に従うことができますように。
   集会祈願より

▲ページのトップへ

第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節

慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。

エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。

高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神

見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

▲ページのトップへ

第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節

実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。

その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、
この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、

また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、
わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを
待ち望むように教えています。

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、
わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。
だれにも侮られてはなりません。

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、
人間に対する愛とが現れたときに、

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、
御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、
新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

▲ページのトップへ

福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節

民衆はメシアを待ち望んでいて、
ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、
皆心の中で考えていた。

そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。
わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

民衆が皆洗礼を受け、
イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、

聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、
天から聞こえた。

▲ページのトップへ