教会カレンダー
C年 年間第3主日
第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節
第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。
そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。
第七の月の一日のことであった。
彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、
理解することのできる年齢に達した者に向かって、
夜明けから正午までそれを読み上げた。
民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。
エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。
彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。
エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、
「アーメン、アーメン」と唱和し、
ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
彼らは神の律法の書を翻訳し、
意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、
律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。
「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。
嘆いたり、泣いたりしてはならない。」
民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
彼らは更に言った。
「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。
その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。
今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
体は一つでも、多くの部分から成り、
体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、
キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、
ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、
奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、
皆一つの体となるために洗礼を受け、
皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、
どこに体というものがあるでしょう。
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、
もっと恰好よくしようとし、
見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。
第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、
その次に病気をいやす賜物を持つ者、
援助する者、管理する者、異言を語る者などです。
皆が使徒であろうか。
皆が預言者であろうか。
皆が教師であろうか。
皆が奇跡を行う者であろうか。
皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。
皆が異言を語るだろうか。
皆がそれを解釈するだろうか。
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節
わたしたちの間で実現した事柄について、
最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、
物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。
そこで、敬愛するテオフィロさま、
わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、
順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
お受けになった教えが確実なものであることを、
よく分かっていただきたいのであります。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。
イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、
いつものとおり安息日に会堂に入り、
聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、
次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。
会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話し始められた。
今年はこの主日から、ルカ福音書を中心に読んでいきます。
今日の福音は、ルカ福音書の「献呈の言葉」の部分とイエスのナザレにおけるはじめての説教が組み合わされています。
ルカは、「私たちの間で実現したあの出来事」について書くと言っています。
それはどのようなことだったのでしょうか。
ルカは福音書で、
を旧約の実現として説明しています。そして主の恵みの年を告げる宣教活動は、イエスの生涯全体によって実現されるものでした。* イエスがよい知らせを告げるために来られたこと
* イエスが来られたことによって「神の恵みの年」がはじまったこと
* イエスにおいて神の恵みの言葉が実現していること
今日読まれる他の朗読も、会衆に神の言葉を説きながら、救いの喜びを告げ知らせています。
イエスのもたらしてくださった「神の恵みの言葉」、「救いを告げ知らせる言葉」を受け取り、それに応える日としましょう。
* * * * * *
今日の第1朗読は、ネヘミア記です。ネヘミア記は、エズラ記と並んでバビロン捕囚から帰還したイスラエルの民が、いろいろな困難にもめげず、神殿を再建した歴史について述べられている書です。
ネヘミア記は、
1~ 7章 ネヘミアの帰国と活動
8~10章 エズラの活動
11~13章 ネヘミアの活動
となっています。エズラ記を読まれるともっとその時の民の状況、「律法の書(聖書のはじめの5書)」の朗読の意味がよく理解できると思います。ぜひこの機会に読んでみてください。
今日読まれる箇所は、律法を中心に再出発するイスラエルの民の記念すべき集会の場面です。精神的な荒廃から民が立ち直り、再び神に向かうことのできた様子が見事に描かれています。
ネヘミアとエズラの活動により、イスラエルは宗教改革をなし、その中心にあったのは、罪を赦し、「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった」神の言葉としての「律法の書」でした。
この宗教改革の出来事は、後世に多大な影響を与えました。
「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。……主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と閉じる今日の朗読ですが、この言葉は心の内に力強く響いてきませんか。聖なる日、主の日をあなたは喜び祝っていますか。
* * * * * *
第2朗読は、先週の続きを読んでいきます。
コリントの教会は、さまざまなたまものをいただいた人が熱心に活動していた、非常に活発な教会だったことが伺いしれます。しかし、この活発さは、教会を一つにしていく働きとはなっていなかったようです。
パウロは、「一つの霊によって、わたしたちは、……皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と言います。
お互いが、それぞれ尊敬し、尊重し合い、仕え合うことにより、高められる教会のいのちについてパウロは述べます。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
「キリストの体」と呼ばれる教会共同体の神秘、あり方をどう受け止め、祈り、生きていますか。
この自覚を深める日としてはいかがですか。
* * * * * *
今日の福音書には、ユダヤ社会の公の場に、はじめて登場するイエスの姿が書かれています。
荒野から「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」イエスは、ナザレに来て、人々の魂、精神の中心であった会堂に入られます。
そこでイエスに聖書が渡され、イエスは「イザヤ書」を読み上げられます。
主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。
この箇所はイエスだけでなく、多くの説教者がそれまでに何度も読んできた箇所でしょう。しかし、それまでと違うのは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とのイエスの言葉です。
イエスが神から遣わされた者であるとのミッション宣言こそ、人々を驚かせたのです。喜ばしい知らせを告げる人が到来したとのイエスのこの言葉は、実に決定的な、力強い響きをもっていませんか。そこに居合わせた人々には、どのように響いたのでしょうか。それは、その後のイエスの生涯を見ていくと分かります。今の私たちが感じる感じ方、理解の仕方とは、確かに非常に違ったものでしたから。
この日をもってイエスは、「主の恵みの年を告げるため」の宣教活動を開始されました。イエスはこのミッション宣言を、十字架の死にいたるまで、生涯徹頭徹尾生きられました。
あなたのキリスト者としての、ミッション宣言は、何ですか。それをどう生きていますか。
祈り
喜びの源である神よ、
あなたは、主キリストのもとに集まるわたしたちに、
救いの福音を聞かせてくださいます。
今日は聖なる日、神の語られることばが実現する日。
あなたに感謝するこの集いが、
わたしたちの生きる力の源となりますように。
集会祈願より
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