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教会カレンダー

C年 四旬節第4主日

第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節

福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節


レンブラント 放蕩息子の帰宅

四旬節の第3主日は、神の招きに応えて回心することがテーマでした。第4主日は、一歩進んで、神と和解しキリストとともに復活して、神の家に迎え入れられることをテーマとしています。

このテーマは、福音の放蕩(ほうとう)息子のたとえ話をとおして展開され、神がどれほど慈しみ深い方であるかを教えています。

息子が帰ってくる前から、そして息子が罪を告白する前から、息子をゆるしている父の姿は、そのまま神の慈しみの姿でもあるのです。

放蕩息子と、慈しみの神は多くの人々の心をうち、多くの芸術作品を生みました。近年ではレンブラントの放蕩息子の絵が多くの人に愛されています。教会芸術は多くの人々の心を打ち、祈りへと招き入れ、また祈りそのものを助けます。

イメージは非常に人の心の奥深くにふれるのを手助けしてくれるというか、イメージが心の奥深くにあるものを引き出してくれるのです。ぜひイメージをとおして祈る体験をなさることをおすすめします。

この日、洗礼志願者がいる教会では、「洗礼志願者のための典礼」が行われます。洗礼志願者のいない教会でも、洗礼志願者のために特別に祈ります。

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第1朗読では、ヨシュア記が読まれます。モーゼの死後、新しいリーダーとともに、イスラエルの民がはじめて「約束の地」に入ってから祝った第1回の過越祭の記事についてです。

モーゼに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、40年間の荒れ野での放浪の後、ヨシュアに率いられて、ついにヨルダン川を渡り、「約束の地」に入りました。こうして、神の約束が成就したのです。そして、イスラエルの民は、新しい生活の第一歩をはじめたのでした。

約束の地で地の産物を食べはじめた日から、荒れ野での長い旅の中で民を養った天のマナは終了し、新しい生活がはじまったのです。

荒れ野ですべてを養われた民は、これからも今までとは違う形で神からたまものをいただきながら生活していくのです。

荒れ野から約束の地の境界線で祝った過ぎ越し祭は、出エジプトからの旅を思い起こし、感謝してイスラエルの民が味わった救いの体験の祝いでした。

「その日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった」との短い叙述の中に長い罪の歴史、救いの歴史があるのです。この放浪の旅は、福音書に呼応しています。

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第2朗読では、パウロは宣教旅行により誕生した新しい共同体に、「神と和解させていただきなさい」と説いています。また、パウロは回心の結ぶ実り、新しい生活について述べています。

最初に述べられている言葉、「新しく創造された者」の中に含まれている意味合いを味わいたいものです。

キリストに代わってお願いします。 神と和解させていただきなさい。 罪と何のかかわりもない方を、 神はわたしたちのために罪となさいました。

これほどの恵みをいただいている私たちです。ゆっくりと、一語一語かみしめたいものです。

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今日の福音は、多くの人々から親しまれてきた「放蕩息子のたとえ」からです。

今日の福音のたとえの部分は、11~24節と25~32節の2つの部分に分けられます。この2つの末尾は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ(24節)」。
 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ(32節)」。
 と「いなくなっていたのに見つかった」という同じ言葉で締めくくられています。

「いなくなった」というギリシア語「アポルーミ」は、今日は読まれない4~10節も含めると、15章には8回も使用されています。大切な言葉ということができます。

この「アポルーミ」という言葉は、「本来あるべきところから離れて力を発揮できずに滅びに向かう」という意味だそうです。ですから、滅びに向かう転落の意味も含めているわけです。

このような息子を迎える父の姿が、20節から語られています。
 「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と描写されている父の姿は、いつの時代にも、誰にでも心打つ言葉として響いてきます。お詫びの言葉を遮って、戻ってきた息子との再会を喜びます。

後半では、弟に寄せられた父の心に喜べない兄が登場してきます。
 この兄は「あなたのあの息子が」と言い、私の弟とは呼びません。ここに兄の心が出ています。
 前半と同じ結びで終えているたとえです。

回心は、神が恵み深い方であるのを知る喜びであり、神の喜びでもあります。ルカは「天におけるよろこび」(15.7)と叙述しています。

神の慈愛こそ人を真の回心に導き、また回心が神の喜びであるとは、ありがたくうれしいことばとして伝わってきませんか。

今日のこのたとえは、離れている人には帰ってくる招きと、父のもとにいる人には、父のもとにあることのありがたさを味わうということが招かれているようです。

祈り

いつくしみ深い父よ、
  あなたは限りない愛をもってご自分に立ち返るすべての者を
  迎え入れてくださいます。
  回心の道を歩むわたしたちに、
  神の子としてのあらたないのちを与えてください。
   集会祈願より

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第1朗読 ヨシュア記 5章9a、10~12節

主はヨシュアに言われた。
「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」

イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、
その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。

過越祭の翌日、
その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。

彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、
イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。
彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

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第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章17~21節

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

これらはすべて神から出ることであって、
神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、
また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、
人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、
わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。
キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです

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福音朗読 ルカによる福音書 15章1~3、11~32節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」
と不平を言いだした。

そこで、イエスは次のたとえを話された。

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

弟の方が父親に、
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。
それで、父親は財産を二人に分けてやった。

何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、
そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、
彼は食べるにも困り始めた。

それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、
その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、
食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、
有り余るほどパンがあるのに、
わたしはここで飢え死にしそうだ。

ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。

息子は言った。
『お父さん、わたしは天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。』

しかし、父親は僕たちに言った。
『急いでいちばん良い服を持って来て、
この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

この息子は、死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったからだ。』
そして、祝宴を始めた。

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、
音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

僕は言った。
『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、
お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

しかし、兄は父親に言った。
『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。
言いつけに背いたことは一度もありません。
それなのに、わたしが友達と宴会をするために、
子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ところが、あなたのあの息子が、
娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、
肥えた子牛を屠っておやりになる。』

すると、父親は言った。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。
わたしのものは全部お前のものだ。

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

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