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教会カレンダー

C年 四旬節第5主日

第1朗読 イザヤ書 43章16~21節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙三 3章8~14節

福音朗読 ヨハネによる福音書 8章1~11節

四旬節も第5週を迎えました。四旬節の深まりにつれて、私たちの視線がキリストの十字架という一点に集中していきます。

教会は、キリスト者になりたいと望む人に四旬節の典礼をとおして、入信の秘跡である洗礼の準備を行います。

今日、洗礼志願者のいる教会では、「洗礼志願者のための典礼」が行われます。洗礼志願者がいない教会では、洗礼志願者のための共同祈願(解放を求める祈り)をします。

いのちの源である神よ、
あなたは愛といつくしみをもってゆるしを与え、
すべての人に回心を呼びかけてくださいます。
秘跡によってあなたの子とされることを望む洗礼志願者を顧み、
罪の重荷と悪のきずなから解放してください。
いつも平和と喜びのうちにあなたに仕え、
永遠に賛美と感謝をささげることが出来ますように。
               (共同祈願の結びの祈りから)

回心の呼びかけではじまった四旬節の典礼ですが、イエス・キリストの受難を記念する聖週間を目前にした今日の典礼では、「キリストのうちに新しく生きる」ことをテーマとしています。

新しく生きる、その中には神の手が働いているのです。今日のみ言葉は、そのことを教えてくれています。

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第1朗読では、「慰めの書」とよばれる第2イザヤ書の新しい出エジプトについて述べる箇所が読まれます。

第2イザヤは、民対神の派遣者である預言者との論争が叙述されていますが、今日読まれる箇所は、まさにその論争の中の一こまです。

16~17 節に書かれているのは、出エジプトのことです。イスラエルの民にとって出エジプトは、彼らの信仰を成り立たせている要ですが、18節からの神の言葉は、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と、もうその出エジプトを思い起こさずともよいと言います。なぜでしょうか。

それは、要(かなめ)とも言うべき出エジプトを越える「新しいこと」がおころうとしているからです。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」と。実にダイナミックに表現されています。

「新しいこと」とは、第2イザヤが述べる捕囚地バビロンからの脱出のことです。

バビロンに追放され失望しているイスラエルの民に、預言者イザヤは解放の時が近いことを告げているのです。

この解放は、新しい「出エジプト」の形で告げられており、この解放は、神のいつくしみを身をもって体験するほどの大きな出来事です。

今日の朗読の最後の言葉、「彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」とは、印象的なことばです。この意味するところは、イスラエルの民が強制労働から解放され、神の栄誉=賛美を語る新しい道を生きることになったことで、これは、ひとえに神のたまもの、民はこのたまものを受容するだけです。

新しい過ぎ越しを語る今日の朗読は、復活徹夜祭に洗礼を受ける人のために、ことに準備されたものと言えるのではないでしょうか。私たちも共に、この過ぎ越しを準備していきましょう。

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第2朗読では、フィリピの信徒への手紙が読まれます。フィリピ教会は、ギリシアのマケドニア地方にあり、パウロにより創設されました。彼らは、パウロの宣教に動かされてキリスト者となりました。

パウロは、フィリピの信徒たちに、自分の生き方を説明します。パウロは、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、……他の一切を損失とみています。キリストのゆえに……それらを塵あくたと見なしています。」と言います。

キリストを迫害していたパウロにとって、回心はキリストによって招かれ、キリストに捕らえられたという出来事にもとづいています。キリストに招かれたパウロは、キリストの歩まれた道をひたすら追い求める、「目標を目指して一心に走る」走者です。

キリストに「捕らえられている」パウロは、つまり神がイニシアティブをとられたので、今度はパウロが、キリストを「捕らえよう」と目標を目指す歩みをし続けます。最後の時までの歩みです。

「何とかして……達したいのです」というパウロの表現の中に、ひたむきで、ひたすら歩み続け、走り続けるパウロの姿が映ってきませんか。

キリスト者とは、完成に達した人ではなく、完成を目指して、よりいっそう徹底的に生きる人、追い求める人をいいます。
 さて、あなたはなにを追い求めていますか。

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今日の福音朗読は、ヨハネによる福音書からです。

イエスを試みるために難問を出し、それどう応えるかをみられている中で、イエスが見事に応えるというパターンは福音書にたびたびみられることですが、イエスが罪を犯した人を断罪することなく、やさしく受け止めるという話もあります。今日読まれる朗読は、その両方の要素が含まれているものです。

姦通(かんつう)者の女性に、どう臨まれるのかということは、イエスをなんらかの方法で窮地に陥れたいと機会をうかがっていた人たちにとって好機となりました。

「あなたはどうお考えになりますか」との問いにイエスは、まず申命記の言葉をもとに答えられます。

「罪を犯したことのない人が、まず、この女に石を投げなさい」とのイエスの言葉は、
そこにいた人たちに、自分の罪を思い起こさせ、同時にイエスを彼らの罠(わな)から抜け出させたのです。

イエスの言葉は、神の前に罪のない人はだれもいないこと、神のゆるしについて語ったのです。

女を咎(とが)めることもせず、人々に非難めいたことも言わずに語られたイエスの言葉は、人々の心の中にしみ込みました。人々は自分の心に石を投げ、女から去っていきました。

そこには、イエスと女の二人だけが残されています。聖アウグスチヌスは、「あわれな者と、あわれみ深い方の二人だけが後に残された」と言っています。

イエスは「もう罪を犯してはいけません」と女にやさしく言い、この女の心をいやされました。そして、彼女は新しいいのちに生きるようになったのです。

神は、今日も私たち一人ひとりを救おうと働き続けておられます。この神のゆるし、いつくしみ、たまものを信じますか。

「あなたを罪にさだめはしない」というイエスのお言葉を、心深くしみこませましょう。そして、その言葉をそのままいただく日としてはいかがでしょうか。

祈り

愛の源である神よ、
  あなたは罪人をゆるし、
  倒れた者を立ち上がらせて、
  新たに生きる力を与えてくださいます。
  はかりしれないゆるしの恵みを注がれたわたしたちが、
  心を合わせて神に感謝をささげることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 イザヤ書 43章16~21節

主はこう言われる。
海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方

戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。

見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。

野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

わたしはこの民をわたしのために造った。
彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

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第2朗読 フィリピの信徒への手紙三3章8~14節

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、
今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、
それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、
キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、
その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、

何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
何とかして捕らえようと努めているのです。
自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ることです。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 8章1~11節

イエスはオリーブ山へ行かれた。

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、 座って教え始められた。

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。

こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」

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