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教会カレンダー

C年 三位一体の主日

第1朗読 箴言 8章22~31節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節

福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

聖霊降臨の主日の次の日曜日は、三位一体の主日です。
 キリストの死と復活、聖霊降臨という偉大な秘義を祝ったキリスト者は、その救いが父と子と聖霊のわざによるものであることを思い、味わいます。

三位一体の神秘は、私たち人間の知性では決して知ることのできなかったことです。それを私たちに教えてくださったのは、他でもなく、イエス・キリストです。

イエス・キリストは、私たちに三位一体の神秘を啓示してくださったばかりか、私たちを三位一体の内面のいとなみに招き、導いてくださるのです。

三位一体のためのミサの祈願は、8世紀半ばの典礼書に見ることができます。1334年に、教皇ヨハネ22世によって導入され、1570年のピオ5世の「ミサ典礼書」以降、教会に定着し、教会はこの救いの神秘の祝日を大切に伝えてきました。

教会の祝祭日は、キリストの出来事を記念し、その日の福音書は、それを理解するために選ばれています。三位一体の主日は、歴史的には、教会の教義をつくりあげていくときの影響を受けているので、理念の祝日ともいわれているほどです。

三位一体の神秘は、新約聖書の中でほとんどいつも“派遣”というテーマで啓示されています。私たちの救いのために、父が子を派遣し、父と子とが聖霊を派遣するというテーマです。

今日、私たちが日ごろ祈っている栄光唱を味わいながら祈ることをおすすめいたします。
 また、パウロ家族で大事にしている「三位一体への祈り」もご紹介します。共にお祈りください。

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今日の第1朗読は、箴言、別名「格言の書」と呼ばれる書からです。これは、名の示すとおり実践的な教訓の集大成で、紀元前6~5世紀(ソロモンの時代から捕囚後の時代)ごろまでの時代の知恵を集めた書で、知恵文学に分類されています。箴言の中には、ソロモン王自身の金言も含まれています。

知恵文学はイスラエルだけに見られるものではなく、他の国にも見られ、エジプトの知恵文学からの影響も強く見られると言われています。

箴言は、5部から構成されています。
 (1) 1/1~9/19、(2)10/1~22/16、(3)22/17~24/34、(4)25/1~29/27、(5)30/1~31/31で、(2)と(4)は一番古いものと言われますが、今日読まれる箇所は、(1)に属し捕囚後のものと言われています。

イスラエルの賢人は、歴史のはじめから人生経験により身につけた教訓をとおして民の実生活を指導してきました。イスラエルの民にとっての知恵は、このような教訓を意味していましたが、箴言が編まれるころには、知恵が人格化されて語られるようになり、その起源と本質が明らかにされます。

今日読まれる箇所は知恵の呼びかけの一部であり、擬人化された知恵、「わたし」の誕生について語っています。
 この知恵は、「わたしはそこにいた」とあるように、神の創造のわざに先立ち、そのわざに参与しており、知恵は、神と世界を結びつける働きをもつと考えられるようになります。

知恵が、「御もとにあって、……主を楽しませる者となって……主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し人の子らと共に楽しむ」と終える今日の第1朗読ですが、この知恵の楽しみに私たちもあずかりたいものです。

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第2朗読は、ローマの信徒への手紙です。今日の朗読は、「このように」とはじまりますが、それを理解するには3~4章を読む必要があります。この機会に読んでみてはいかがですか。

今日読む箇所は、1~5節と短いものですが、中身は濃厚です。パウロの展開するテーマ、信仰と義、平和、希望……、そして私たちの心に注がれる聖霊について述べています。

神の愛によって注がれる聖霊は、いつも信じる者の内側から働きかけます。聖霊の内在については、すでに旧約聖書に語られています。エレミア書31章33節、エゼキエル書36章27節です。聖霊についてパウロは、8章において詳しく説明します。

使徒として働く信仰生活の深い体験として語るパウロは、心の中に住む神の平和についても語ります。

パウロが平和、希望……を確信をもって語るのは、一人ひとりの心に神の愛である聖霊が注がれているからです。
 この愛の霊、聖霊に気づきたいものです。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」との今日の結びの言葉を、何度も何度も口ずさみながら、この言葉が私の中に自然と融和するまでに繰り返して祈っていきながら、この霊、神の息吹に私たちの身をゆだねる日としてはいかがですか。

この神の息吹である聖霊は、私たちの中で信仰生活の真の内容でもある愛と平和を築いてくれるでしょう。
 パウロは、これを告白しているのです。

* * * * * *

今日の福音は、イエスの別れの言葉(告別説教)から読まれます。その中で、イエスは聖霊の派遣について何回か語られますが、今日読まれる箇所は、その約束の5回目、最後の「真理の霊」の派遣についての約束です。

この世を去るにあたって、イエスは、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と言われます。この時のイエスの心はどうだったのでしょうか。あなたは、どう感じられますか。

しかし、聖霊にすべてを託されるのです。
 今日読まれる12~15節の中に聖霊について、「その方」と4回も使われています。

* その方、すなわち、真理の霊が来ると、
* その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、
* その方はわたしに栄光を与える。
* ……その方がわたしのものを受けて、……

イエスのように、イエスの中に入って、私たちも「その方」と呼んでみてみてはどうでしょうか。

ヨハネにとって聖霊は、私たちを、真理であるイエスの言葉の中に導き、その言葉のもつ一切のことをことごとく知らせる方です。つまり、聖霊は新しいことを啓示なさる方ではなく、イエスの言葉、出来事、終末的出来事の中に含まれている本当の意味を明らかにされる方なのです。

今日の福音は、父と子と聖霊についてのヨハネの信仰告白と言えます。ヨハネはこれをキリストの言葉として表現しています。ヨハネの言葉には三位一体の神秘が反映しています。

人となられたイエスが私たちに明かしてくださらなかったら、私たちは三位の神秘については知ることができません。
 この上なく人を愛される神は、父・母として、子として、聖霊としてご自分の心を人々に示されます。

三位一体との交わりが私たちのものになったのは、洗礼のときです。キリスト者は、三位一体の交わりを深めていく必要があります。

父と子との間で交わされる愛の交わり(聖霊)に、入れられるということはどういうことなのか……。
 キリスト者の救いの原点であるこの出来事を、各自の体験の中でつかみ、味わいたいものです。

今日もイエスは、私たちのために父・母なる神にとりなし、聖霊を送ってくださいます。

祈り

聖なる父よ、
  あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、
  神のいのちの神秘を示してくださいました。
  唯一の神を礼拝する私たちが、
  三位の栄光をたたえることができますように。
   集会祈願より

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第1朗読 箴言 8章22~31節

 (神の知恵は語る。)
「主は、その道の初めにわたしを造られた。
いにしえの御業になお、先立って。
永遠の昔、わたしは祝別されていた。
太初、大地に先立って。
わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
わたしは生み出されていた。
大地も野も、地上の最初の塵も
まだ造られていなかった。
わたしはそこにいた
主が天をその位置に備え
深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
主が上から雲に力をもたせ
深淵の源に勢いを与えられたとき
この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし
大地の基を定められたとき。
御もとにあって、わたしは巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって
絶えず主の御前で楽を奏し
主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ。

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節

 (皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

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福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)言っておきたいことは、まだたくさんあるが、 今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 その方はわたしに栄光を与える。 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

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