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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖パウロの大聖堂建立へ

1) 聖パウロの大聖堂建立の望み

1922年の聖堂
1922年の聖堂

アルベリオーネ神父は、前々から聖パウロにささげられた大聖堂の建立を考えていました。

1922年、彼は、「聖パウロ小聖堂」と呼ばれる、小さな聖堂を建てましたが、それは香部屋を作るためにとり壊されました。

1925年、アルベリオーネ神父は、聖パウロの取り次ぎによって多くの恵みを受け、その感謝のしるしとして、聖パウロ大聖堂の建築をはじめました。

この聖堂は、パウロ家のメンバーが、共に祈り、黙想し、神からの光と力を受け、使徒パウロの熱意にならい、彼のように神の栄光と人びとの救いのみを求めるための祈りの場、修練の場でもありました。

使徒パウロとの関わり

アルベリオーネ神父は、神のご計画の一端をあかして欲しいとの会員の要請に対し、「彼は書きとめておくということはしなかった。記録をとるということ自体に反感を感じていたし、あらゆる面で恥じらいを感じていたので、多くの事柄について何を言うべきかを知らない」と残しています。ですから、パウロ家族の基本的な霊性が、どう誕生していったかについて確実なデーターは残されていません。

しかし、アルベリオーネ神父の「霊的手記」や、シスター テクラ・メルロの「私たちの誕生」、ジャッカルド神父の「日記」を読むと、使徒聖パウロとパウロ家族との特別な関わりを見いだします。

「パウロ家族」、「聖パウロ修道会」、「聖パウロ女子修道会(聖パウロの娘たちと呼ばれていた)」と、聖パウロの名を受けていることから、使徒パウロの信心は、聖パウロ会と共に誕生したと言えます。いや、むしろ、創立に先がけて存在したといえるでしょう。というのは、アルベリオーネ神父が神学生、教区司祭であったころからの個人的な信心であり、それがだんだん修道会に導入されたからです。そしてこの信心は、『霊的手記』から分かるように、神学生のころ、ローマ人への手紙を読んで、後に養われていったことがうかがいしれます。

アルベリオーネ神父は、自分の抱いていたビジョンを聖パウロにゆだねていたのですが、1917年12月8日のジャッカルド神父の日記によれば、修道院に「聖パウロの部屋」があったことがわかります。「重大な儀式が、私たちの聖パウロ小聖堂でくりひろげられました」とジャッカルド神父は記しています。

そればかりでなく、修道会をはじめられたのは、アルベリオーネ神父によるものではなく、「無原罪の聖母に祈っておられた聖パウロと、神に祈っておられた無原罪の聖母の功績である」とのアルベリオーネ神父の言葉を、ジャッカルド神父は伝えています。

アルベリオーネ神父自身、創立の歩みを振り返りながら、「パウロこそ修道会の創立者である」と言っています。

第二の歴史は、彼のうちにひとつの深い確信を生み、彼はそれを熱心な祈りにしている。
つまり、会員はみな使徒聖パウロのみを父、師、創立者と考えねばならない。ほんとうにそうなのだから。
使徒聖パウロによって聖パウロ家族は生まれ、彼によって養われて育ち、彼から精神を汲んだのである。

そのあわれなやせっぽちについて言うなら、彼(アルベリオーネ神父)は神のみ旨の一部分を果たすのに一役買ったが、年長だったために、主から受けて他に分配する役目を引き受けたにすぎないのであって、舞台からも記憶からも消えていくべき者だからである。
ミサが終わると、司祭は祭服を脱いで、神のみ前にあるがままの姿にとどまるように。

「霊的手記」から

パウロ

●ジャッカルド神父は、共同体に、「聖パウロに向かう祈り」が初期の時代からすでにあったことを次のように伝えています。「私たちは情熱に満ちていました。聖パウロと聖母の祈りが唱えられ……」と。

●そして、この信心は、ひとつの出来事に強められ 勇気づけられることになります。アルベリオーネ神父が、良い出版の代表者会議のためにトリノに出かけた時、彼は聖パウロの額と小さなご像を2時間もかけて探し、買って帰ったのでした。彼らは、心からの拍手をもって聖パウロの額と小さなご像を迎え入れたのでした。

その他にも、ジャッカルド神父は日記に、聖パウロとの関わりについて書いています。
 その後、聖パウロの名にふさわしいご像が祝別されたのは、1923年6月のはじめでした。

◆5--1 聖パウロの大聖堂建立へ


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