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新世紀ルーツへの巡礼
第二次世界大戦
1) 第二次世界大戦へ
ここからは、第二次世界大戦中、大戦後にパウロ家族のメンバーはどのような歩みをしたのかについてお伝えします。
イタリアは、第一次世界大戦の戦勝国となったものの、第一次世界大戦の軍事的負担は、戦後のイタリア経済を圧迫することになりました。この大戦後の混迷した政局に対し、イタリアの国民が望んだのは、一党独裁体制が確立する強力な統一政府の樹立と生活の立て直しでした。この時代に台頭してきたのが、ムッソリーニに率いられたファシスト党でした。
1929 年に、ムッソリーニは、国民の支持を得るため、時の教皇ピオ11世とラテラノ条約を結び、カトリックをイタリアの国教としました。教皇がムッソリーニ政権を認めることで、1890年以来イタリアに併合されていたローマ教皇庁は、バチカン市国としての独立が認められたのです。
ムッソリーニは、古代ローマ帝国の失われた栄光の復活を目指し、軍備を拡張し、植民地獲得のため、当時アフリカ大陸の数少ない独立国であるエチオピア王国に侵攻したり、スペイン内戦に介入したりしていました。しかし、エチオピア侵攻やスペイン内戦介入は、イタリアの軍備消耗を招く結果となりました。
このエチオピア侵攻は、国際世論の反発を買うことになり、国際連盟による対伊経済封鎖を引き起こすことになります。この経済封鎖は、度々の軍事介入によってすでに弱体化していたイタリア経済にとどめを刺すことになりました。反発したイタリアは、国際連盟を脱退し、同じく国際的な孤立を深めていたドイツ、日本と接近し、日・独・伊三国軍事同盟を結びます。
1939年9月のドイツの対ポーランド戦や、1940年5月の独仏開戦にあたっては中立を保っていたイタリアも、1940年6月、フランス崩壊間際に、かつてのイタリア領であるサヴォイア、ニース地方に侵攻し、対英仏宣戦布告を行います。
1941年12月8日、日本が英・米に宣戦を布告すると、ドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告し、イタリアは世界大戦のまっただ中に入っていきます。
イタリアは、フランスに敗北し、その後、アフリカ、ギリシア、ソ連にも重ねて敗北しました。
1943 年7月、連合国軍のシチリア上陸により、空襲は激しくなり、爆撃はくりかえされるようになりました。これを契機としてイタリア支配層内部のムッソリーニ批判が表面化し、ムッソリーニは孤立します。彼の責任を追求した大評議会は、グランディ氏の動議を可決し、ムッソリーニは失脚し、あとをついだ政権は、いち早く無条件降伏をしたのでした。
しかしその時、幽閉中であったムッソリーニは、ドイツの援助のもと救出され、北イタリアに“イタリア社会共和国”という新政府を樹立し、連合軍の北上をはばもうとしたため、イタリア国内の混乱はなおいっそうひどくなりました。
ムッソリーニ側のイタリア軍と組んだドイツ軍は、イタリア各地に陣地をかまえていたので、たとえイタリアが降服したとしても、国内では、ドイツ軍と連合国軍とイタリアのレジスタンスとの戦いが続いていました。レジスタンスは、連合国の支持と支援を受け、その活動は活発になります。ムッソリーニは、連合国軍の進撃を避けスイスに脱出する途中レジスタンス運動員により発見され、銃殺されました。
こうして、日独伊三国軍事同盟を中心とする枢軸国と、米、英、仏、露、中国などの連合国側との間で戦われた世界戦争は、1945年に連合国に降伏したイタリアが同盟を破棄した後、5月にドイツが、そして8月には日本が降伏し、三国軍事同盟はここに消滅し、終結しました。
戦争終結までの約15年もの間、ムッソリーニが率いていたファシズム体制のもとでは、国家または民族の発展を最高の目的としており、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義政治形態がとられたため、個人の基本的人権や自由は否定され、言論や出版の自由は抑圧され、国家や社会全体の利益が優先されました。
ファシズムの典型はナチス(=ドイツ)であっても、ファシズムが最初に成立したのはイタリアだったのです。
このような状況の中で、ラジオや新聞をとおして伝えられた数々の軍事ニユースに接したアルベリオーネ神父は、何を感じ、何をしたのでしょうか。パウロ家族の成長のただ中にあってこれらをどう受け止めていったのでしょうか。
第一次世界大戦をすでに体験していたアルベリオーネ神父は、戦争がもたらす悲惨な状況、衣、食、住を失った避難民や戦争で命を失った家族などをつねに心の中に抱いていました。
彼は、町や家、何の罪もない人が攻撃され、戦火に巻き込まれるのを見て心を痛め、教皇の願いでもある平和のために祈るようにとの記事を書き、同時にこのために祈るようにと奨励していました。このような記事は、ファシスト党の目に触れないわけはなく、アルベリオーネ神父や記事の編集責任者は当局から呼び出されたこともありました。
1944年6月、戦渦は北イタリアへと移り、ことにアルバでは長い期間この戦渦の中心となっていました。
北イタリア、トリノはアメリカ空軍から無差別爆撃を受け、その様子はパウロ会の印刷工場の屋根の上からも眺めらるほどでした。第二次大戦勃発当初、アルバは夜警のサイレンを聞くぐらいのものでしたが、降服以後は、ドイツ軍に反抗するゲリラ戦やアメリカ軍の爆撃で、にわかに戦場と化していったのでした。このような状況のもと、聖パウロ会の新しいイニシアティブは、中断せざるを得ませんでした。
アルベリオーネ神父列福手続きのために、彼を教会に紹介したパウロ会司祭ルイジ・バルトルタ神父はこうつづっています。
第二次世界大戦は、パウロ家族の発展を中断する。しかし、余儀なくローマにとどまったプリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父)は、自分の霊的歩みを押し止めることができない。
使徒職を続けるためによりよい条件が回復するのを待つ間、アルベリオーネ神父は、日に日に深まる礼拝と観想の雰囲気のうちに、つねによりいっそう根源的な神の光を集める。霊的ノートがこれを証明する。
彼はこのノートに、神のインスピレーション、自分の霊的働き、神が彼の上に描いておられる個人的な聖性のご計画に応えるためにとった手段などを几帳面に記録している。 この深い霊的雰囲気の中で、後日創立者が毎日息子や娘たちを養うための黙想が生まれる。
それは、子らの霊的・使徒的歩みを方向づける指針となり、彼らを養う多くの「月の静修」や「年の黙想」の説教のもとになる。
創立者の心配は、いつも同じで、「パウロ家族において第一に心がけるべきことは聖なる生活・いのちの聖化であり、次に教えの聖性である」ということを全員に理解させることであった。
◆6--1 第二次世界大戦
- 1) 第二次世界大戦へ
- 2) 第二次世界大戦におけるパウロ家族
- 3) アジアに向かったパウロの娘たち
- 4) パウロの娘の使命
- 5) 戦時中のエピソード
- 6) ベネディクト会修道女に修道院開放
- 7) 全員、自分たちの場を離れずに