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新世紀ルーツへの巡礼

目次

第二次世界大戦

6) ベネディクト会修道女に修道院開放

現在のモンテ・カッシーノ
現在のモンテ・カッシーノ

1943年10月、連合軍が南部イタリアに上陸し、半島を北上していったとき、ドイツ軍から強硬な反撃を受け、イタリア全土が南から北へとローラー作戦で全滅することが見えていました。

モンテ・カッシーノにあるベネディクト修道院(聖ベネディクトの建てた有名な修道院)大修院長は、戦争の成り行きを予感し、カッシーノにある観想会のベネディクト会修道女たちにカッシーノの修道院を離れたほうが賢明だと勧め、自分たち修道士は歴史あるモンテ・カッシーノの修道院にとどまりました。しかし、彼らもやがて移動を余儀なくされるのですが。

大修院長は、何台かのトラックに乗せて、まだ破壊の少ないローマに彼女たちを向かわせました。ローマの聖パウロ大聖堂を管理している修道院はべネディクト会の管轄でしたが、男子の修道院なので、彼女たちがとどまることはできませんでした。

聖パウロ大聖堂にある男子べネディクト会の神父が、シスターテクラのところに来て、家を失った修道女たちのために宿を願いました。修道院に一部の修道女だけでも受け入れてもらえるかどうかと尋ねたのです。総員28人と修院長でした。彼女はすぐに、「どうぞ、いらしてください。何とかなるでしょう」と返事をしました。

「何人泊めていただけるのでしょうか?」と神父が尋ねると、シスターテクラは、「修道院とすべてを失うことで、もう十分にお苦しみになったでしょう。特に観想会の修道女なのですから、方々に分散するのはお互いにとても大きな苦しみになるでしょう。もしよければ、みんな一緒にここに来てください。ここで、あのかたたちの規則に従った生活が続けられるでしょう。私たちの聖堂で聖務日祷も唱えられますし、寝室も準備しましょう。食堂は私たちと一緒にお使いになってはどうでしょうか」と答たのです。

この答を聞き、べネディクト会の神父は、彼女の寛大な配慮と他者を理解する深い心から出たこの答を聞いて涙を流したのでした。

この話があったのは、シスターテクラが、戦渦の中家族の安否を気遣う志願者たちを、家族のもとに返したあとでした。そのため、すぐにべネディクト会の神父に返事をすることができたのでした。

シスターテクラは、一番大きな寝室を彼女たちにあて、いくつかの部屋を病人や弱い人のために、そして仕事のために別の部屋をあてました。毎日届く戦況のニュースは、カッシーノにとってもモンテ・カッシーノにとっても、ますます重苦しくなるばかりだったので、食堂は、少しでも彼女たちの気分をひきたて、穏やかにする目的で一緒に使うことにしました。

べネディクト会のシスターたちは、到着するとすぐに食堂に案内され、冬の衣服まで受けました。

この修道女たちが、できるだけ自分たちの修道院にいるように感じることができるようにと、シスターテクラは心を配り、観想会の囲いの中での生活、決まったリズムを守り、彼女たちの慣例どおりの祭儀が行えるようにはからったのでした。

シスターテクラ

何人かの聖パウロの娘たちは、ローマの北約90キロにあるボルセナまで、じゃがいもや粟などの食料を買い出しに行っていましたが、それを彼女たちと分かち合いました。自分たちの修道院を遠く離れて、いわば流浪の身である彼女たちの気分をひきたて、朗らかにさせるために、シスターテクラは、ときどき自分のシスターたちに寸劇を準備させたりもしました。

この年の2月、修道女たちが一番恐れていたことが起きました。カッシーノやモンテ・カッシーノが爆撃で粉砕されて壊滅しました。もう修道院はなくなったのです。このつらい出来事を知らせる役もシスターテクラでした。彼女たちは、約1年間、パウロの娘たちのところにとどまったのです。

パウロの娘たちもみな、シスターテクラにならい、食物も建物も、防空壕も、すべて分かち合い、戦争がもたらした困苦を共に耐えていったのでした。

カッシーノのベネィクデト会修道院の大修院長は、この時の状況をこう証言しています。

1944年2月、カッシーノは爆撃され、モンテ・カッシーノの男子の修道院も私たちの修道院も同じ夜の爆撃でめちゃめちゃになりました。
すっかり希望を失ったような深い悲しみを私たちの顔によみとって、プリマ・マエストラ(シスターテクラ)はいつもの快活さと母性的態度で慰めてくださいました。
「心配なさらないで。私たちの家は神様の家ですから、あなたがたのものでもあるわけです。ここから出て行けなどとけっしてだれも言いはしません。あちこちの修道院に分散させたりすることをだれにも許しません。私たちが信頼しさえすれは、神様が守ってくださるでしょう」。

ある日私は、「プリマ・マエストラ、いつまでもあなたの娘たちのパンを食べることを恥ずかしく思います」と言いました。
プリマ・マエストラは、まじめな顔でしばらく私を見つめ、すぐその美しい目とくちびるとにほほえみを浮かべて、「そんなことをおっしゃってはいけません。私たちは喜んでしています。神様にお任せしましょう。しっかりしてください、大修院長様」と言われました。
私は自分の修道女たちに、この言葉を伝えたので、みんなまた元気づきました。

8月18日、私たちは聖パウロ女子修道会の丘にあるヴィッラ・スタラーチェ館をお借りしました。
これは私たちの新しい住まいでした。プリマ・マエストラは、安心させるような声で言われました。
「はじめは、いろいろな不便や苦しみがあるでしょう。あなたがたの状態はよくわかっていますから、できるだけお手伝いさせてください。私たちも、自分たちの最初のころの悲惨と貧しさをよく覚えています。でも神様への信頼は、いつも私たちのささえでしたし、これからもそうでしょう」と言ってくださいました。
そして何でもくださいました。お皿、コップ、下着、洋服、食べ物、経済的援助……何でも。
ときどき私たちをたずね、また修道女たちを送って私たちの健康や精神的経済的状態はどうかと尋ねてくださり、手に入るかぎりの物を何でも分けてくださいました。
あの別館は少し寂しい所にあって、悪い人が来る危険もありましたので、犬までもくださったのです。

シスターテクラの書斎には、べネディクト会員の住む家に面して窓がありました。プリマ・マエストラは「書斎にはいると、私の思いと目はあなたたちに向かいます。みなさんを祝福し、みなさんのために祈ります」と、たびたび言ってくださいました。

私たちはプリマ・マエストラのところに11カ月いて、それからヴィッラ・スタラーチェ館に10年位いましたが、いつも聖パウロ女子修道会ととても親しくしました。

その11カ月の間に、私たちはプリマ・マエストラの多くの徳をながめ、感嘆することができたのです。

まず愛徳において、信仰の精神において、祈りの精神において、また彼女のあらゆる行為にひそんでいたあの深い深いけんそん、このようなことにおいて、彼女は全く第一「プリマ(「第一の」の意味)」の人でした。

1944年8月、ローマ解放から3カ月目に、合同管理局からラウレンティーナ通りぞいの家屋がベネディクト会修道女にあてがわれました。

新しい家に移る前、シスターテクラはべネディクト会員が自分たちと一緒に15日の聖母被昇天祭を荘厳に祝うように望みました。

18日、彼女たちは新しい住み家に移りました。そこに移った修道女たちに、シスターテクラは、ひき続き食料や聖堂用具、家具、台所用品を運び続けました。

何年かたってカッシーノに帰ることができた時、シスターたちは当時を思い出してこう言っています。「マエストラ・テクラは大修院長をご自分の車で送るように配慮してくださいました。私たちにくださった援助の数々はほんとうにたいへんな量で、私たちがカッシーノに帰るときにはいくつものトラックに積むほどの荷になっていました」と。

一人のパウロの娘は回想しています。「私は戦争中の彼女の強さに感心していました。避難所で何時間も何時間も過ごすとき、彼女が私たちの間を歩いているのを私たちは見ていました。……彼女を眺めているだけで勇気が湧きました。歩きながら祈っておられました。『できるだけ慎重にしたうえで、神様に信頼して心配しないようにしましょう。プリモ・マエストロ(アルベリオーネ神父)は、何も起こらない、とおっしゃっています』」と。

戦時下にあって国内と海外のパウロの娘たち、およびパウロ家族のため、戦争の労苦と心労が、シスターテクラの健康にひどく影響しました。1945年の夏には、健康を回復できれば、という望みをかけてアルバにしばらく移ったのでした。

8月に、アルベリオーネ神父は、こう手紙を彼女に書いています。
 「……健康が回復してきている、ということで主に感謝しています。とくにローマの娘たちにとっては大いに喜ばしいことです」。

ローマから車で1時間半くらいのところにあるグロッタフェラータの修道院を拡張しなければならないこと、支部修道院ではシスターたちが衰弱していて、いろいろな困難が起きていること、さらにローマに使徒の女王にささげる大きな聖堂を建てることを、アルベリオーネ神父は彼女に書き送っています。

11月、彼女はまだ健康を回復してはいなかったのですが、年内にはなんとかそれを取り戻したいと望んでいました。戦後はじめての、しかもアルベリオーネ神父に同行する新しい旅行が、彼女を待っていたからです。

この旅行は、二人のどちらにとっても、すでに全教会から認められた修道会の責任者としての最初の旅行でした。1943年12月13日に、教会は聖パウロ女子修道会に称賛状と会憲に対する最初の「承認」を与えました。大きな一歩です。何年も待ちわびたこの一歩は、アルバのグラッシ司教の援助もあって実現したことでした。

戦争は終わり、パウロの娘たちは一人も失われることなく、全員助かりました。幾人かは全くはっきりと「ふしぎにも」救われたのです。アルベリオーネ神父は、このいのちの感謝として、使徒の女王にささげる大きな聖堂を建設することになりますが、それは次にご紹介したいと思います。

◆6--1 第二次世界大戦


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