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新世紀ルーツへの巡礼
第二次世界大戦
3) アジアに向かったパウロの娘たち
すでにお伝えしたパウロの娘(聖パウロ女子修道会)のその後、パウロの娘の第二次世界大戦までの歩みと、戦争中をどのように生きたのかを数回にわたってお伝えしたいと思います。
1939年、第二次世界大戦がはじまった時、パウロの娘たちはすでにいろいろの国で宣教をはじめていました。1931年にはアルゼンチン、ブラジル、32年にはアメリカ合衆国、35年にはフランス、次は中国でした。
第二次世界大戦のはじまる少し前、1937年1月8日、アルベリオーネ神父は、パウロの娘エドヴィジェ・ソルダーノ、エレナ・ラモンデッティとマリア・クレオフェ・ザノーニの三人を中国に派遣します。この時、シスターテクラは出発前に一人ひとりを抱擁し、愛の共同体をつくるように、お互いに助け合い院長と一致していくようにとさとしました。彼女たちは、1934年にすでに中国に派遣されていた聖パウロ修道会会員たちの小さな拠点に合流し、彼らに協力しながら、共に広大な地中国にも神のみ言葉をのべ伝えるという使命を果たすことになっていました。
漢口で下船したパウロの娘たちは、すでに小さな印刷所をもって働いていた聖パウロ修道会の会員と出会いました。彼らは6人の中国人と一緒に使徒職をはじめていました。パウロの娘にとって、そこは、彼女たちの拠点となるはずでした。ところが、南京の司教が当時の首都でもあった南京に聖パウロ修道会会員と共に彼女たちも来るようにと招いてくれました。そこで、彼らは一緒に出発し、聖金曜日に南京に到着しました。復活祭後には、印刷所の機械と資材が着くことになっていました。
パウロの娘たちは小さな家に住まいを定め、これからの宣教にそなえて言葉の勉強をはじめました。
そのころの中国は、国民政府の蒋介石が率いる国民軍が、毛沢東の革命共産軍と手を握ったというニュースが流れていました。それは、満州ばかりか中国本土にも軍隊を送りこんでくる日本軍と戦うためでした。
1937年には、東京では「二・二六事件」という軍のクーデターがおき、日本は戦争への道をまっしぐらに進んで行こうとしていました。
1937年7月7日、一つの事件を機に日本は中国に戦争をしかけ、これは長い歩みを経て、第二次世界大戦へと発展していきます。
日本の爆撃機は中国の都市を襲撃し、数週間のうちに、上海も南京も日本に占領されました。多くの中国人があらゆる方向に向けて避難していきました。この避難民のなかに、聖パウロ修道会会員やパウロの娘たちもいたのです。
逃げる途中で、聖パウロ修道会会員たちからはぐれてしまったパウロの娘たちは、上海にたどり着こうとしたのですが果たせず、彼女たちは、中国の国境を越えて逃れることになります。これ以外の道はなかったのです。
中国にパウロの娘三人をおくったシスターテクラは、中国が戦争になったことしか知らず、彼女たちのために心を痛めて祈っていました。
彼女たちは、長い旅を続け、やっと香港に到着しました。彼女たちはそこでインドでの滞在を考え、インドに向けて出発しました。インドには、1935年からすでに聖パウロ修道会会員が行っていたからです。聖パウロ修道会会員は、できる限りの援助をしたい、迎え入れたいと望んでいましたが、インドでは、聖パウロ修道会会員たちも、デリーの大司教にやっとおいてもらっていた関係上、彼女たちまで、そこに受け入れてもらえる状況ではありませんでした。彼女たちは中国から避難してきたという今までの事情を司教に説明し、インドでの滞在許可を願いましたが、回答はここから出発するようにというものでした。
この時彼女たちは幸いにも、ローマのシスターテクラと連絡を取ることができました。彼女はフィリピンからの連絡で、聖パウロ修道会が彼女たちの受け入れの準備をしてくれているということでした。
フィリピンでは、すでに聖パウロ修道会の修道院があり、聖パウロ修道会の会員たちは、あらゆる援助をする準備をして彼女たちを待っていてくれるということでした。
そこで、彼女たちはフィリピンに向けてデリーを後にしたのでした。1938年10月13日にフィリピンのマニラに到着しました。なんと長い旅だったでしょうか。中国にパウロの娘が到着するのは、それからまだまだ長い時を待つ必要がありました。
フィリピンで、アジアでのパウロの娘たちの新しい生活がはじまりました。アジアでのパウロの娘たちの宣教は、あの戦争と国外追放という出来事、避難という長い歩みを経て、はじめられたのです。パウロの娘は、父使徒聖パウロと同じ道を歩むのです。
フィリピンにおいてもパウロの娘は、避難につぐ避難で困難な目にあいました。聖パウロ修道会にはすでに20人あまりの志願者がおり、リパには小さい印刷所もありました。彼女たちはそこに身を寄せました。41年には、聖パウロ修道会がマニラに引っ越したとき、彼らが住んでいた家をパウロの娘たちに残してくれ、そこに住むことになりました。
しかし、このリパの町も日本軍により崩壊され、パウロの娘たちが本拠として働き、いろいろの企画を立てて活動していた住まいも爆撃され破壊されました。こうしてパウロの娘は、41年から45年の戦争終結まで避難の旅を余儀なくされました。
実に戦争は、数多くの困難をパウロの娘たちに与えたのです。戦争が終わり、奇跡的にもパウロの娘は全員無事でした。そしてここでまた、彼女たちは新たな出発をすることになります。パウロの娘は、マニラで家庭宣教を行い、将来を担う多くの召命をいただくことになります。
枢機卿)はリパのパウロの娘の共同体を訪れ、そこでミサをささげたり、シスターたちとの会話により、修道会を知ることになるのです。やがてパウロの娘が日本に来たとき、彼は自分の教区に彼女たちを招いたのです。
振り返ってみると、戦争のただ中にも不思議な導きがありました。大阪の田口神父(後の枢機卿)はリパのパウロの娘の共同体を訪れ、そこでミサをささげたり、シスターたちとの会話により、修道会を知ることになるのです。やがてパウロの娘が日本に来たとき、彼は自分の教区に彼女たちを招いたのです。
一方、ヨーロッパでは、フランスにおいて、イタリアの領事がパウロの娘たちにフランスを去るようにと勧めていましたが、彼女たちは使徒職の場にとどまりたいと望んだのでした。
聖パウロ修道会会員は、1949年の毛沢東体制下のもと、多くの制限の中でカタコンベのような生活をしていましたが、やがて、彼らはスパイとして告発され、中国から追放されました。
◆6--1 第二次世界大戦
- 1) 第二次世界大戦へ
- 2) 第二次世界大戦におけるパウロ家族
- 3) アジアに向かったパウロの娘たち
- 4) パウロの娘の使命
- 5) 戦時中のエピソード
- 6) ベネディクト会修道女に修道院開放
- 7) 全員、自分たちの場を離れずに