home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 > 2-聖パウロ修道会 > 1)広い原っぱへ

新世紀ルーツへの巡礼

目次

広い原っぱへ、基礎固めの時

1)広い原っぱへ

アルバの町
アルバの町

1914年、「小さな労働者印刷学校」としてアルバにまかれた種は、目をみはるような成長を遂げました。集まってくる多くの青少年を迎えることができるように、修道会 最初の修道院を建てるための広い土地を入手するときが到来したのです。

1919年7月25日、その日は聖ヤコボの祝日、アルベリオーネ神父の霊名の祝日ですが、彼は、少年たちを自分のまわりに集めてこの祝日を一緒に祝いました。その時の人数は25人でした。25人といえば、多くの人数とはいえませんが、この少年たちのために、聖堂、印刷所、勉強室、倉庫、編集のための部屋、リクレーションのための広い運動場など、彼らのために広いスペースが必要でした。それまで3回も引っ越したのですが、今また、さらに広いスペースを考えねばなりませんでした。家は満員で、その上、この生まれつつある会に、不思議にも反対が増えるにしたがい、入会希望者も増えていたのでした。

聖堂、印刷所、学校、倉庫、運動場を一カ所に集めることができ、将来の必要にもこたえることのできる広い土地に、住居を見つける時がきたのです。しかし、そのような広い土地をどこで見つけることができるのでしょうか。

サレジオ会の創立者聖ヨハネ・ボスコや、貧しい病人の看護のための施設「み摂理の小さき家」を建てた聖コットレンゴに倣って大都市トリノ市にみつけるのか、友人であるカルディナル・マッフィがおられるピサにするか、すでに修道会がその歩みをはじめているアルバに探すことがいいのか……。

アルベリオーネ神父は長いこと熟考し、また多くの人とも相談しました。ボルコマーレの主任司祭ジュゼッペ・キエザ神父は、30年後にその時のことを思い出して、語っています。

彼は、アルベリオーネ神父を、自分のところに迎え入れる心があることを表明していました。新しい住居を探さなければならなくなった時、青少年たちをどこに落ちつかせたらよいかと、アルベリオーネ神父から意見を求められました。

彼はアルベリオーネ神父の話を注意深く聞き、彼が神から託された使命と彼のもっているビジョンがどれほどのものかを理解し、こう言ったのでした。「それなら、広い原っぱに飛び出すほうがよいでしょう」と。

この友人の意見が、アルベリオーネ神父の決定にどれほどの影響力をもったかは、知るすべもありませんが、この年の終わりころ、アルベリオーネ神父は“マルコッティ”と呼ばれていた広い原っぱに目をつけたのです。その地といえば、町の周辺地域にあり、アルバとアレキサンドリア間の鉄道とケラスコ川に囲まれた、7~8ヘクタール(約21~24万坪)ほどもあるところでした。確かにこの広さは彼のビジョンの実現のために十分な広さでした。

alt=


●アルベリオーネ神父は、ある祝日に、少年たちと一緒にこの土地を見に行きました。

●彼は、少年たちにはすでに自分の計画を打ちあけていました。少年たちは、こんな広い場所にはじめて来たのでした。

●ジャッカルド神父は、聖母のメダイとみ摂理の聖人・聖ヨセフのメダイを手に入れ、テオロゴ(神学の先生)の計画の上に聖人の力強い取り次ぎを求めながら、垣根の間にそっと埋めていたということです。

アルベリオーネ神父はこの時の体験を、後になって司祭たちの黙想の時に話しています(この黙想の書は、アルベリオーネ神父が亡くなった翌年に出版されました)。

  この土地(アルバの)を買わねばならなかったころ、少年たちはここにリクリエーションをしにきていました。
  私はこの畑や原っぱを、隅から隅まで見渡して考えていました。私たちの会はまだ小さく、幼児のような私たちが、このような膨大な出費に挑むことは、神のみ旨に適うことだろうかと。
  私は、一瞬、眠りに落ちたような気がしました。
  修道院を建てている間、太陽は輝いていました。
  次に太陽が沈み、私は見たのです。
  神に召されていながら召命を捨てた人によって、私は一番大きな苦悩を体験するだろうということをです。

  その人たちは、後で召命を捨てたのです。特に一人がある権力を得て本会に反対し、その権力をふるった様子を見ました。

  それから太陽は再び輝きだし、建築ははじめられました……。

この体験そのものがどのような価値を持っているのか、また暗示されていることが過去・未来のパウロ的生活の中のどの事実をさしているのかは明確ではありません。ただ、この出来事をとおして、アルベリオーネ神父は、アルバのこの土地を購入することは、神のみ摂理のご計画にあるとの確信を得たのです。

彼のもうひとつのうちあけ話によると、アルベリオーネ神父は、その時の神秘的な体験の中で、現在、アルバを訪問する人々が見る聖堂とそれを中心にして立つ2つの大きな建物を、すでにその時見ていたということです。

聖パウロ会母院
聖パウロ会母院

その時以来彼は、計画したり進めたりしたすべての建物について、いつもこの建物の配置が用いられていたと言われています。

この土地の購入がみ摂理の計画であるなら、この交渉にともなって起り得る困難は必ず克服できる、助けは与えられると信頼し、アルベリオーネ神父の側からすることは、祈り、清貧、そして人間の知恵に可能なあらゆる手段をこうじることであると確信していました。

この土地の購入にはいろいろのことがありました。アルベリオーネ神父がパウロ会の建築用地として目をつけていたところは、肥沃(ひよく)な土地ではあったのですが、あまり活用されておらず、しかも7人の地主のものでした。

この土地の町よりの部分は、レンガ工場が、数年も前からレンガ材料として土を採っていたため、2メートルくらいえぐりとられており、この採掘はこれからも続けられることになっていました。

また、土地の中央には、古い農家があり、老人夫妻が住んでいました。彼らは1ヘクタール(約3千坪)ほどの土地を耕して野菜を作っており、その他の土地は空地のまま放置されていました。

土地の購入の取り引きは6人目の地主までは順調でした。しかし、7人目の人は、土地を手離すつもりはある、と言いながら非常に高い値段をつけたのでした。この時、トノリ市に住む一人の恩人(彼はこの道の専門家でした)が、売り主と交渉し、売値を引き下げてくれたのでした。

こうしてアルベリオーネ神父は、1920年2月末には土地の法的所有権を獲得し、直ちに「印刷学校校舎」の建築にとりかりました。実にこの時には、イタリア全土より志願者が入会し、約80人ほどになっていました。

◆2--5 広い原っぱへ、基礎固めの時


▲ページのトップへ