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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖師イエス聖堂

2) ローザ神父と……

サン・カッシアーノの地

●ここで、時代をちょっとさかのぼりながら、サン・カッシアーノの地に関する出来事を 振り返ってみましょう。

●それは、「印刷学校」がはじまって間もない1914年、アルベリオーネ神父は ローザ神父と出会い、協力しあうことを約束しました。

●アルベリオーネ神父は、非常に活動的で、すばらしい説教者であったローザ神父に、活動のために必要な広い場所を与えるため、一つの教会を町のはずれに、協力して建てることにしました。そのため、多くの地主から土地を買い上げ、その手続きが行なわれました。その広さは、モンカレットと呼ばれていた建物も含めて約7ヘクタール(2700坪)でした。

モンカレットは、これから共同体生活をはじめようとする 印刷学校の志願者の住居となるはずでした。それから、土地購入の主な目的であった教会を建立し、その後にはモンカレットは売却するか、あるいはその教会で働く司祭たちの仮住まいになるはずでした。

アルベリオーネ神父は、報告書の中で司教に次のようなことを言っています。
 「町の入口に当たる所に教会があると、その近辺の地価は上るでしょう。そうなると、教会の周囲を少し残し、その他は自分たちがそこを買った時の同等の値で、再び売りに出すことができるでしょう。それで、すでに契約している8万リラの借金と、建築費用は返済することができるはずです」と。このような期待も、計画の中にあったのです。

この2人の司祭の計画は、司祭協議会自らが認可しました。土地の入手後、半年目には、1人の金持ちがアルベリオーネ神父に、土地とモンカレットの家の購入費として、多額な金額を寄付しました。その金額は、教会建築のための出費した金額をとっても、まだ残るほどのものでした。

ところが、第一次世界大戦は、数々の活動とともに、彼らの計画を困難とさせました。彼らは、どうしたら最小限度の損害とし、この新しい事態をきり抜けることができるかを考えることを余儀なくされたのです。そこで、考えられたのが、戦争孤児のための農園の開設でした。その土地の大部分は、農作物の栽培に適した豊かな土地だったからです。

援助の必要な戦争孤児は、数多くいました。いくつかの家庭は、孤児院建設とその養育に必要な経費を支払ってくれることになりました。ある人は、農園の経営を無償でひき受けてくれたので、事業は、すぐ実現されたのです。

イエス画

さらに、身体に障害をもつ人々のための療養所建設の話も出ていました。この考えは、ローザ神父にとっては大変好ましいものであったのですが、アルベリオーネ神父にとっては違っていました。彼には、神から託された固有の使命があったからです。

しかし、この点に関して、アルベリオーネ神父が司教に提出した報告書には、記録されていません。ただ、極秘とされた報告書の“注” ― 報告書に付加されたもので、彼は後で返してくるようにと司教に依頼しています ― にそのことが書かれています。司教は、記録保存所に納めるため、自筆でそれを写した後、アルベリオーネ神父に返したようです。これらから推し量ってみると、アルベリオーネ神父は、ローザ神父と意見のくいちがいと 信頼の不足があったようです。

この療養所の件で、2人は 袂(たもと)を分かつことになりました。報告書にアルベリオーネ神父は、司教にその承認を嘆願しています。

彼らの訣別により、ローザ神父には、あらゆる財産の所有権とその用益権とともに農園が与えられました。

アルベリオーネ神父には、印刷学校、『ガゼッタ・ディ・アルバ』誌、女子グループ、そして、彼と生活を共にする若い人たちの責任が与えられました。

パウロの娘たちは、1922年にサン・カッシアーノ地区にある、「神の摂理の家」と呼ばれる建物に移りました。

ローザ神父は、モンカレットに座を置き、1921年~22年まで66人の孤児を預かったのです。しかし、やがて、その農園は閉鎖されました。1923年のことでした。

最初の計画に反して、この地には、つつましい聖堂が建てられました。これは、いずれ教会のサクリスチアになるはずのもので、当面はその地域の子どもに教理を教えるための勉強室として使用されることになります。いずれにしても、はじめの計画どおりに進展することは出来なかったのです。

ローザ神父と アルベリオーネ神父の間に起こったトラブルは、訴訟となって長引き、もはや友好的な解決の道は失われたのです。バチカンはこの問題を アルバの司教に解決を一任することにしました。これが1925年に結論にいたるため、フランシスコ・キエザ神父が貢献することになります。

モンカレットの地は、アルベリオーネ神父から没収され、彼に残ったものは、わずかに1ヘクタールだけでした。後年、その地に“聖師イエス”にささげられた聖堂が起工されるに至ったのです。

バルベロ神父は、「もし、アルベリオーネ神父が大戦後、今のボルゴ・ピアベの左に土地を持っていたら、そこに聖パウロの教会と修道院を建てたでしょう」と言っています。しかし、1920年に、アルベリオーネ神父は、別の場所に、聖パウロ聖堂が建てられた地をすでに購入していたのでした。

印刷学校の志願者たちが、ローザ神父のもとモンカレットに寄留したのは、1916年4月23日までした。その日、彼らは、がらくたをかかえて市内にもどり、ペラウディ氏から借りた家に移り住むようになりました。部屋は住居として十分で、来客を迎え入れることもできました。しかし、紙、本、聖具などは入りきれず、同じマッツィーニ通りの別の人の納屋に 置かせてもらうことになりました。

アルベリオーネ神父は、当時を述懐して霊的手記を残しています。

◆5--3 聖師イエス聖堂


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