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教会カレンダー

C年 四旬節第1主日

第1朗読 申命記 26章4~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節

福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

四旬節の最初の主日です。これから、私たちの信仰の中心であるキリストの死と復活の記念にあずかる準備をしていきます。

この期間に教会は、洗礼志願者の最終準備をします。あなたの教会でも、洗礼志願者のために、特別の祈りをささげていることでしょう。

すでに教会メンバーとして過ごしている人たちは、自分がいただいた洗礼の恵みを思い起こし、洗礼更新の準備をするように教会は勧め励ましています。

洗礼準備期に入った志願者のために、今日の典礼では、信仰生活の出発点である信仰宣言をテーマとした朗読が読まれます。

四旬節の典礼は、非常に豊かなものですので、神の言葉を深めながら、典礼をとおしてキリストの死と復活の神秘を悟らせていただけるように祈りましょう。

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第1朗読では、聖書学者から「小歴史的信仰宣言」と呼ばれている申命記26章が読まれます。

申命記は、イスラエルの民がヨルダン川の東岸に到着した時、モーセが約束の地を示しながら、荒れ野での旅を振り返り、その地に入った時に守るべき道、シナイでの契約の精神を民にもう一度説き聞かせ、民に忠誠を勧めて亡くなります。申命記はいわばモーセの告別説教です。

イスラエルの民は、毎年収穫時に最初の収穫物を神にささげていました。それは、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの民が、神の導きでエジプトを脱出し、豊かな地、約束の地に導いていただいたことを振り返り、年の初物をささげ、神に感謝し、契約を更新するためでした。

どこの民族でも、初物を神にささげますが、イスラエルの民も初物を祭壇に供え、そこで信仰告白をしていました。それというのも、収穫物の多さというより、神が民を導いて、約束の地を与えてくださった、その神が実りを与えてくださったという神の「良さ」を告白するためです。エジプト脱出という出来事をとおして出会った神なので、収穫の感謝祭にも、この地に導いてくださった神に感謝の祈りをささげるのです。これはイスラエルの民の特徴でしょう。

この箇所をみていくと、6節以下に「私たち」と複数になっていますが、最後の10節では「私」と再び単数に戻っています。エジプト脱出の体験は「私たち」と複数で、つまり先祖と同一化して語られています。これは祭儀文の特徴です。この初物を携え神に祈りをささげる後世の人々は、エジプト脱出の体験をしていない人々でしょう。しかし、たとえ出エジプトを体験していない人々でも、エジプト体験が神の民をつくり、この体験は次世代に受け継がれていき、どの時代の民も「私たち」と言い民としての信仰告白をしながら再体験していくのです。

この「私たち」としての体験は、時代を越えて伝えられ、祭儀を通じてどの時代の人にも参加できるようにします。ですから今もこの初物への感謝は、単に収穫物への感謝にとどまらず、実りを与えてくださった神、神の「よさ」を味わうようにと信仰告白は招くのです。

この招きは、今日の「私たち」に、何を語るのでしょうか。

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第2朗読では、ローマの信徒への手紙が読まれます。

この手紙は、パウロがコリントに滞在していたとき、57~58年ごろに書かれたものです。この手紙はガラテアの信徒の手紙と共通する主なテーマ、つまり信仰によって義とされる人間の救いについて取り扱っています。キリストの心を心とするまでパウロが歩んだ道については、その心の遍歴について描かれている書などから深めると味のあるものとして彼の手紙を読んでいくことができます。

今日の手紙でパウロは、イエス・キリストによる救いはすべての人に及んでいることを聖書を引用して述べます。パウロの時代の聖書と言えば、今日私たちが旧約聖書と呼ぶもので、レビ記と申命記から引用しています。

  「御言葉はあなたの近くにあり、
   あなたの口、あなたの心にある。」
 これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

彼は教えの形をとった契約の書、「小歴史的信仰宣言」と言われる申命記から引用します。第1朗読でも申命記が読まれていますが、モーセ五書をしめくくる大切な書なので、このような機会に通読するのは有意義なことです。ちなみに今日引用されている30章は、申命記でモアブでの契約のしめくくりを記しています。

パウロは続いて、初代教会の基本的な信仰告白である次の2点を記します。これは、パウロにより宣べ伝えられ、人々に届けられました。

* イエスは主である
* 神がイエスを死者の中から復活させられた

パウロは、今日読まれる最後の13節を、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とイザヤ書の言葉をもって、神が人類全体に救いの道をキリストによって開いたとして閉じています。

キリストの救いが、すべての人に及ぶというパウロの言葉は、四旬節がはじまる今日朗読されるのに ふさわしい個所といえるでしょう。洗礼志願者を心に抱きながら、すべての人に救いが及ぶことを今日の典礼で読ませる教会の心を味わいましょう。

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四旬節の第1主日の福音は、ABC年ともイエスの受洗後、聖霊により荒れ野に導かれ、そこでサタンの試みにあい、それに打ち勝ち、その後福音を宣べ伝えられたことを伝える箇所が読まれます。今年は、C年ですので、ルカによる福音書が読まれます。比較しながらお読みになると、ルカの視点が見えてきます。ぜひ読んでください。

今日の福音は、
  1~2節 導入
  3~12節 本論
  13節 結び
 という構成になっています。

導入部を見てみると、
a イエスは聖霊に満ちて……お帰りになった。
  b 荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
  b' 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
a' ……その期間が終わると空腹を覚えられた。

aとa'は能動態の動詞が、bとb'は受動態の動詞が用いられ、交差配列法を用いることにより、荒れ野が“霊(聖霊)”との対決の場であることを明確にしています。

荒れ野は、日常の粉飾がすべてはぎ取られた場なので、人の姿が赤裸々にあらわにされる所です。そこでは、人間はいつも霊の勧めと悪の誘いにさらされ、挑戦されます。その荒れ野でイエスは悪魔からの誘惑を受けるのです。しかも空腹、権力と繁栄に対する欲求、神からの保証の要求という人間存在の一番弱い部分をついています。ですから、イエスの使命を実践するにあたっての選択、どのような根本的選択をすべきかについての誘惑ということができます。

誘惑に用いられている「ペイラスモス」という語は試練、誘惑という意味があるそうです。それは両方共に苦しみですが、誘惑となるのは、それに打ち負かされる危険が意識されている時です。

イエスは、ご自分が受けた悪魔の誘惑に対して、すべて申命記の言葉を引用して退けます。申命記は、イスラエルの民が「荒れ野」での罪の歴史を振り返り、約束の地での生き方を記している書なので、まさにこの書の引用は義にかなったものと言えるでしょう。神の言葉こそが荒れ野での道しるべとなるのです。

洗礼式の中で、「悪魔とその栄華を捨てる」ことを各自は公に約束するわけですから、教会は今日の福音の中でイエスの生き方を示すことにより、洗礼志願者の準備をしているのです。

イエスのように、私たちに荒野と誘惑が訪れたら、私たちはどう反応するのでしょうか。
 神に生きるのか、背を向けるのか。
 誘惑とどう向き合っていったらいいのかについて、イエスは教えてくださっています。あなたはどうしますか。

 →40日間の体験 について

祈り

全能の神よ、
  ひとり子イエスは、あらゆる誘惑に打ち勝ち、
  十字架の死に至るまであなたに従う道を歩まれました。
  四旬節を迎えたわたしたちが、
  復活への信仰と希望を新たにし、
  主とともに歩むことができるよう強めてください。
   集会祈願より

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第1朗読 申命記 26章4~10節

祭司はあなたの手から籠を受け取って、
あなたの神、主の祭壇の前に供える。

あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、
わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。
しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。

エジプト人はこのわたしたちを虐げ、
苦しめ、重労働を課しました。

わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、
主はわたしたちの声を聞き、
わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、

力ある御手と御腕を伸ばし、
大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって
わたしたちをエジプトから導き出し、

この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。

わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、
今、ここに持って参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、
あなたの神、主の前にひれ伏し〔なさい。〕

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第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節

では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、
すべての人に同じ主がおられ、
御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

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福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。
そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、

四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。
その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」
とお答えになった。

更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、
一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

そして悪魔は言った。
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。
それはわたしに任されていて、
これと思う人に与えることができるからだ。

だから、もしわたしを拝むなら、
みんなあなたのものになる。」

イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」

そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、
神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。

というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』

また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」
とお答えになった。

悪魔はあらゆる誘惑を終えて、
時が来るまでイエスを離れた。

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