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キリシタンゆかりの地をたずねて
雲仙の殉教者
雲仙の殉教地
島原半島の有馬領(当時は、高来[たかく]と呼ばれた)にあったキリシタン時代の教会は、最も徹底して育てられていました。
大村純忠は横瀬浦港をポルトガル人に開港し、貿易で利益を得ていました。純忠の兄の有馬義貞(ありま よしさだ 義直)も、1563(永禄6)年、父晴純の勧めで宣教師たちを有馬に招きました。
義貞は、口之津も横瀬浦と同じようにするために宣教師を呼び寄せました。その招きに応えて、イルマンルイス・アルメイダが有馬で、島原と口之津に小さな教会をはじめました。
1568(永禄11)年には、口之津は日本の教会の本部となりました。
1576(天正4)年に、義貞はアルメイダから洗礼を受け、ドン・アンドレスと呼ばれるようになりましたが、数カ月後には、病死してしまいました。
後を継いだ息子晴信は、キリシタンたちを迫害し、父が教会に与えた土地を奪いました。洗礼を受けたばかりの信者たちはその信仰を棄てましたが、口之津の古い信者たちは迫害に屈することはありませんでした。
次第に晴信も迫害をゆるめていきました。
巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノがポルトガル船で口之津に入港し、軍事物資を提供し、有馬は敵軍をしりぞけることができました。
晴信は、1580(天正8)年に洗礼を受けてドン・プロタジオと呼ばれるようになりました。本城であった日野江城にも小さな教会が建てられ、セミナリオも開かれました。
有馬全領がキリシタンとなり、日野江城の城下町はキリスト教文化の中心地として栄えました。
徳川の支配下になり、1612(慶長17)年、晴信は岡本大八事件によって甲斐国谷村に追放され、そこで6月5日処刑されました。家康の孫娘国姫を正妻とした直純が有馬に戻り、徳川の望みに従いキリシタンの迫害をはじめました。
宣教師と主だった信者を追放して、教会を破壊しました。7月には、ついに3人の信者たちが斬首の刑によって殉教しました。翌年10月7日には、3人の重臣とその家族8人が火刑に処せられました。
1614(慶長19)年に直純は日向延岡に国替えとなり、松倉豊後守重政(まつくら ぶんごのかみ しげまさ)が有馬を治めました。松倉氏は、新しく森岳(島原)城を築くために、大部分がキリシタンである農民の協力が必要であったこともあり、キリシタンの迫害には消極的でした。そのため、数人の神父たちが、島原半島に隠れて、潜伏していました。
しかし、1627(寛永4)年、1年間江戸にとめおかれ島原に戻った松倉氏は、徳川家光の圧力の下、厳しい迫害を行うようになりました。
雲仙は1627(寛永4)年から1632(寛永9)年の間、殉教地となりました。このときの迫害者はこの松倉氏と長崎の奉行竹中采女正(うねめのかみ)でした。
この雲仙の殉教者の中で目立った人物は、パウロ内堀作右衛門でした。パウロ内堀の家族はみなキリシタンでしたが、1614(慶長19)年の迫害で信仰を棄てました。この数人の親戚は、島原の有力者であったため、この迫害でパウロ内堀が助けられるように計らいました。後に、この親戚たちも次第に教会に戻り、パウロ内堀は教会の指導者となっていきました。
血の流れる指をながめる
イグナチオ内堀像
教皇パウロ5世は、1619(元和5)年にジュビレウム(聖年、あるいは他の理由で教皇から発表される大赦の年[Jubilee Year])の恵みを与え、信者を励ます手紙を、日本に送りました。翌年その手紙に感謝する手紙を、高来の信者たちが教皇に送りました。この手紙には高来の主な教会の信者12人のサインがあり、彼らの少なくとも6人は数年後に殉教しています。その内5人は、パウロ内堀をはじめとする雲仙の殉教者です。
1627(寛永4)年、37人キリシタンが捕らえられました。パウロ内堀も3人の息子と共に捕らえられました。
2月21日、松倉氏の命により、森岳城で拷問が行われました。パウロ内堀の3人の息子バルタザルとアントニオ、5歳のイグナチオを含む16人のキリシタンたちが、見せしめにために手の指を切り落とされました。
フェレイラ神父は詳細にその記録を残しています。まず、18歳の次男のアントニオが呼ばれ、彼は勇気をもって板の上に手を広げました。奉行は、パウロ内堀を苦しめるために「指を何本切り落とそうか」と問いました。パウロ内堀は「それを決めるのはわたしではない。あなたに任されている」と答えました。彼は、両手の真ん中の3本の指を切断しました。兄のバルタザルは、「アントニオよ、よくやったぞ」と弟に言いました。そして、自らもその拷問を受けました。最後に5歳のイグナチオが呼ばれました。右手の人差指を切り落とされ、彼は手を顔近く挙げて、美しいバラの花を見る人のようにながめていました。続いて左手のもう1本が切り落とされ、同じような顔で前にしたようにそれをながめ、泣きもせず苦しみのしるしも見せませんでした。
森岳城からながめる有明海
16人のキリシタンたちは2隻の船に乗せられました。パウロ内堀たち20名は、この見せしめに立ち合わせるためにもう1隻の船に乗せられました。16人は裸にされ、縄に縛られたまま厳寒の有明海に投げ込まれ、沈もうとすると縄で引っ張られて水面まで引き上げられ、また沈むように縄をゆるめられ、それを繰り返されて、最後には海中深く沈められて殉教しました。
最初に殉教したアントニオは、父に向かって「お父さん、こんな大きな恵みのために神様に感謝しましょう」と言い海に沈みました。バルタザルもイグナチオも同じように殉教しました。そのときのパウロ内堀は、イサクの犠牲のときのアブラハムを思い起こさせるものでした。
パウロ内堀たち20人は、両手の3本の指を切り落とされ額には「切支丹」3文字を焼印されて釈放されました。
それでも、パウロ内堀は熱心に宣教を続けたため再び捕らえられました。息子たちの殉教から1週間後、パウロ内堀たち16人は牢から引き出され、雲仙に送られ、裸にされ数時間の拷問のすえ1人ずつ硫黄のたぎる湯つぼに投げ落とされました。最後に残されたパウロ内堀は、2度投げ込まれては引き上げられ、全身焼けただれながら「ご聖体は賛美されますように」と唱え、3度目に湯つぼに投げ込まれました。
5月17日には、ヨアキム峰助太夫たち10人の殉教者が雲仙地獄に送られました。彼らも前回と同じように裸にされ数時間の拷問の後地獄の湯つぼに投げ込まれ、その信仰を証ししました。