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キリシタンゆかりの地をたずねて
トマス金鍔次兵衛
トマス金鍔次兵衛は、1600年ごろ長崎県大村の貧しいキリシタンの家に生まれました。
下級武士であった父レオ小右衛門(こえもん)と母クララおきあは、後に殉教したと言われています。
次兵衛は、6歳で有馬のセミナリオに入りました。ここで、ペトロ岐部やトマス西、マンショ小西と共に学ぶこととなりました。
1614年、次兵衛は宣教師たちと共にマカオに追放され、そこで勉強を続けることになりました。1620年、セミナリオが閉鎖され、日本に戻った次兵衛は伝道士として働くことなりました。
司祭となって同胞を助けたいと熱望していた次兵衛は1622年、マニラに渡り、聖アウグスチノ修道会に入会し、トマス・デ・サン・アウグスチノの修道名をもらいました。1628年、次兵衛は晴れて司祭に叙階されました。
弾圧の嵐が吹き荒れる日本で同胞たちを助ける決心をした次兵衛は、長上の許可を得て、1631年に侍に変装し帰国を果たしました。次兵衛は30歳になっていました。
次兵衛は長崎奉行所に馬丁になりすまし、桜町の牢屋に捕らえられていた宣教師や信徒を訪ねて励ましました。また、変装して信徒たちの司牧にあたりました。教会にまた力がよみがえりはじめました。
1634年、不審に思った長崎奉行が探索を厳しく行いはじめ、危険を感じた次兵衛は姿をくらまし、長崎の外海の山中に身を隠しました。次兵衛が潜んだ場所は今も「次兵衛岩」、「金鍔谷」と呼ばれています。
長崎奉行は次兵衛の人相書きを造り「金鍔狩り」に着手しました。探索を逃れた次兵衛は江戸に赴き家光の小姓たちにキリストの教えを説いて洗礼に導きました。激怒した家光は、次兵衛の捕縛を命じました。このときから、九州で往来手形制度がはじまりました。
「金鍔」とは、次兵衛が金の鍔の脇差しを帯びて侍に化けていたことから、こう呼ばれています。
神出鬼没でいたるところに出没してはなかなか捕らえられない次兵衛のことを、長崎旧記類には「魔法を使う伴天連」として語り継がれています。
1636年11月1日、次兵衛はついに長崎の片淵で捕らえられました。捕縛されたとき、奉行所は彼が「トマス金鍔次兵衛」であるとは知らず、普通のキリシタン信徒だと思っていました。しかし、次兵衛は自ら「自分はアウグスチノ会のトマス金鍔次兵衛神父」であると答えました。
魔法を使うと思われていた次兵衛は、二重に縛られたと言われています。
次兵衛は、捕縛され厳しい拷問を受けましたが、棄教することはありませんでした。
1637年8月21日から3日間、西坂で逆さ吊りの刑を受けましたが、ポルトガル船が入港し船員の取り調べを行うため牢に戻されました。
11月6日、再び牢から出され、西坂で二度目の逆さ吊りの刑を受け、衰弱していた次兵衛はその日のうちに殉教しました。享年37歳でした。
彼の遺体は石をつけられ海に沈められました。