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ニコラオ永原ケイアン


野洲市永原
野洲市永原

ニコラオは霊名、永原は生まれた地の名前、ケイアンは法名です。カルディン神父はニコラオの殉教を述べる時、彼を「福永」と呼んでおり、彼の正確な家系はわかりません。

 ニコラオ永原ケイアンは、1569(永禄12)年ごろ現在の滋賀県琵琶湖の南方にある野洲市(やすし)の永原に生まれました。

 安土に城を築いた織田信長は、1576(天正4)年の荒木村重との戦いで高山右近に圧力をかけるため、ステファノニオ神父とイルマン・ロレンソと2人の同宿らを永原に監禁しました。彼らは無事解放され、その後この地で最初に宣教したのは、この戦いで領地を失い、イルマン・ロレンソの教えを受けたサンチョ三箇でした。
 信者の数も増え、教徒から安土へ向かう宣教師やキリシタン武士たちの多くが永原を通りました。

 ニコラオは武家の出で、彼の家族はキリシタンに改宗していたため、彼は幼いころからセミナリオで育てられました。ニコラオが12歳の時、安土が破壊され高槻にセミナリオが移されたため、彼が入学したのが安土のセミナリオなのか、高槻のセミナリオなのか明らかではありません。

安土セミナリオ跡
安土セミナリオ跡

1587(天正15)年の豊臣秀吉の伴天連追放令の発布によって、セミナリオは大阪から長崎の平戸生月島に逃れ、その後長崎のミゼリコルディアに移されました。
 このような状況の中で、ニコラオはイエズス会に入会しました。

 1588(天正16)年に修練院は有馬領の有家に移され、ここで、ニコラオは聖パウロ三木や福者セバスチャン木村などと共に過ごします。さらに1年後には、修練院は天草の河内浦に移されました。

 ここでニコラオは、1590(天正18)年、修道者として誓願を立てました。日本管区の名簿には修練者として記され、「上(カミ)のイルマン・ニコラオ」と呼ばれています。
 翌年には、4人の少年使節が修練院に入り、以後ジュリアン中浦とニコラオはしばしば交流することになりました。

 ニコラオは、1595年ごろからイルマンとして布教活動をはじめ、博多の教会に任命されました。
 1614(慶長19)年の徳川家康による禁教令によって、ニコラオはマカオへ追放されました。この時、彼はすでに45歳となっていましたが、ここで再び勉強に打ち込みました。  その後、同宿全員の世話がニコラオにまかされました。当時の管区長と同宿たちの間に不和が生じ、宣教師の下を離れ、日本に帰る者や、ローマやマニラに向かう者もあり、ニコラオにとっては苦労の多い日々であったと思われます。

 ニコラオも、日本に向かうことを決意し、1615(慶長20)年、日本に戻ることに成功しました。
 帰国後、ニコラオはすでに50歳を超えていましたが、大村の教会を拠点に宣教を続けました。このころには、再び西坂で殉教がはじまり、大村の鈴田には、宣教者のために特別に造られた牢もありました。

 1625(寛永2)年、ついにニコラオに修道士としての終生誓願が許可されました。ニコラオが終生誓願の式が、長崎で行われたのか口之津で行われたのかはっきりしません。
 しかし、1633(寛永10)年ニコラオもついに肥前で捕らえられて、長崎のクルス町の牢に入れられました。そこで、ニコラオは、かつてコレジオで共に学んだ中浦ジュリアンたちに出会いました。

西坂

7月28日、ニコラオはミカエル薬屋と共に牢から出され、西坂まで歩いて連行されました。ニコラオは、縄で縛られ、穴の中に逆さに吊され、腰のところで穴の口を2枚の板で塞がれ、脳に血液が逆流して早く死なせないように耳たぶに小さな穴があけられるという、非常に残酷な穴吊りの刑にかけられました。この刑は、この日はじめて執行されました。

 暑い夏の穴の中に吊られたニコラオに、「背教すれば水を与える」と役人が言うと、彼は「水も何も要りません。ここにはわたしと一緒に聖母マリアがおられます」と答え、役人たちの言葉に動じることなく、かえって彼らに易しい言葉で説教をしました。残念なことがあるかと問われて、ニコラオは「はい、将軍様をキリシタンにできなかったことです」と答えました。

 最期に聖母の連祷を唱える声が聞こえ、飲まず食わずで穴に吊られた苦しみの4日目、ニコラオは殉教しました。この日7月31日は、イグナチオ・ロヨラの祝日でした。遺体は火葬され、長崎湾に蒔かれました。

 ニコラオの殉教には、不思議なことが起こったと噂されました。それは、きつく縛ったはずの縄が何度も解け落ちており、彼が穴の中で自分を支えている聖母マリアがおられると言ったなどでした。
 ニコラオは、享年63歳でした。



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