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新世紀ルーツへの巡礼
6--3 旅、そして旅
1) 新たな旅のはじまり
第二次世界大戦後、パウロの息子、娘たちが世界に新しく派遣されて行くと、アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロは、会員たちが出発した後、父として、母として配慮のこもった手紙や訪問をもって、世界中のみなを気遣い、同伴していました。
アルベリオーネ神父は、宣教地にいる息子や娘たちと再会し、使徒職や修道生活を確認するため、世界旅行によって、充実した使徒的活動を再開します。
二人にとって旅をすることは非常に体力のいることでしたが、彼らを支えていた力は福音的な精神から、つまり、町から町へと旅して行ったイエスの姿です。また、愛する旅行者使徒パウロのように、一地方から他の地方へ、海から海へ、大陸から大陸へと旅をする生活がはじまります。
* イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(マルコ 1.38)
* しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。(1コリ 11.26~28)
アルベリオーネ神父自身、こう書き残しています。
発展力はカトリック精神と、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ 16.15)との神の派遣の命令から生まれるもので、堅信のときに注がれ、叙階において成長する。
聖パウロは偉大な旅行者である。
すべての人に福音を宣べ伝えたいという願いこそ、彼らを動かしていたものなのです。彼らは、ローマでは絶えず大家族の種々の必要に自ら気を配り、そして、ヨーロッパから北アメリカへ、アフリカからアジアへ、ラテン・アメリカからオーストラリアへと、五つの大陸を次から次へと旅をしたのです。
彼らが用いた交通機関は、時代とともに変化し、列車、自動車、大西洋横断汽船、飛行機と、あらゆるものに及びました。
はじめて飛行場に向かうとき、アルベリオーネ神父は「子どものときには、二輪車で旅行しただけだ。しかも、馬に引かせず、牝牛がひいてくれたものだ!」と話していたということです。
彼がはじめて飛行機を利用したとき、その当時の修道者の間では飛行機を利用するということは、ごくまれなことでした。しかし、彼は人類の進歩が生み出してくれたメディアを、“時間”を大切にするためにありがたく利用したのです。ここに彼がなにを大切にしていたかが伺いしれます。
アルベリオーネ神父とよく一緒に旅行したシスターテクラ・メルロや兄弟たちの証言によれば、彼は、ごく短い休息の時間を除き、旅行中のほとんどを潜心のうちに長時間祈り、祈りにあてられていないわずかな時間は、主が彼に託された使命のため情報を収集することなどに向けられていたということです。
つまり、今から行こうとしている国々の人口は? カトリック者の数は? いま飛んでいるこの下にある国々の人口は? どうやったらそこにまで浸透していけるだろうか? どのくらいの会員で? どのようなメディアを用いて? ……と、彼は計算し、計画し、企画を立てていました。
旅行も使命が要求することでないなら、必要ではありませんでした。旅先では、人の話に耳を傾け、説教し、励まし、勧告を行いました。
決して健康に恵まれていたのではないのに、何日もこのようなことが続くこともありました。
1949年の旅行については、アルベリオーネ神父自身、兄弟たちに旅のレポートを送っていますので、次回からはそれらをとおして彼らの旅行についてご紹介していきたいと思います。
◆6--3 旅、そして旅
- 1) 新たな旅のはじまり
- 2) アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロ はじめて東洋へ
- → 聖パウロに向かって東洋のためにする祈り
- 3) インドへ
- 4) シスターテクラ・メルロ、フィリピンへ
- 5) フィリピン諸島から
- 6) ついに見ることのできなかった中国
- 7) ベルティーノ神父の証言からみる中国(1)
- 8) ベルティーノ神父の証言からみる中国(2)
- 9) ベルティーノ神父の証言からみる中国(3)
- 10) ベルティーノ神父の証言からみる中国(4)
- 11) ベルティーノ神父の証言からみる中国(5)
- 12) ヴァラルド神父の中国への旅の回想から